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こいわずらい

現実と空想の狭間に視える景色

旅路の先に僕らは何を映すのか

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(撮影:逢崎らい)

今回は、偶然撮影できた写真を通じた、ちょっとした小噺。

先日、4月16日開催の沼ラブに合わせて15~17日の沼津探訪を行った。
いろいろと目的はあったのだが、やはり一番は現在いずっぱこ線で行われている、HAPPY PARTY TRAINラッピング電車をこの目で見ることだった。
実物を見た感想等は、他で散々に語られているので、当記事では割愛しよう。ただ、デザインとして完成されたラッピングペイント、人々の生活に密着した空間を走っていく姿、そして地元の方々の反応など。目にして損のない、滅多にない経験ができるので、ぜひ走行期間中に来訪していただきたい。

では、冒頭の写真の話に移ろう。
ラッピング電車内のつり革はAqoursのメンバー9人のカラーに彩られているのだが、その中にひとつだけ、ハートを象ったつり革が用意されている。時期ごとにつり革か中吊りかの位置が変えられているようで、今回は津島善子の中吊りが掲げられていた。
(一応)善子推しの身としては、善子とハートを一緒に写真に収めなければならない。そんな使命感のもと撮影したのがこの写真である。

ハート枠での中吊りの切り取り方、ハートからピントを外してボケさせた点など、iPhoneカメラのわりに満足いく出来になったと個人的には思う。

しかし、今回この写真を取りあげて記事にしようと思ったのは、そんなこととは全く別の部分について言及したいからだ。

もう一度、写真を見ていただきたい。
中吊りの下、車中を進んでいった向こう側に、ひとりの男性の姿が写っていることに気づいただろうか>
手にカメラらしきものを構えているところを見るに、私たちと同様にHPT電車を目的にして、旅に訪れた人間に違いない。少し足を引いた体勢がまるでポーズをとっているようで、偶然にも関わらずなかなか様になっている。

さて、ここから先は写真という現実から切りとって、私個人が勝手に感じとった妄想のお話。

この写真を撮影し、男性の姿に気づいたとき、私のなかにビリリと電流が走った。
彼の姿はつまり、私自身の姿そのものの鏡映しではないか?
ラブライブサンシャインを目当てに沼津へ旅に来て、そこで展開される景色を切りとるためにカメラを構える。それはまさに私自身がこの写真を撮るために行っていた行為であり、そして同時に、写真に写る彼自身が行おうとしている行為である。
偶然、私の撮った写真が彼を写していただけで、仮に彼のカメラがこちら側を向いていたら、彼の撮った写真には間違いなく、同じ姿かたちをとる私がそこに写っていただろう。

カメラというものは、その場所の景色をそのままに切りとる装置だ。
では、写真に写りこむ私たちとは、一体何者なのだろう?

私はこの瞬間、つまり写真という媒体に収められた瞬間に、自らは景色の一部へと変化してしまうのではないかと考える。

「旅」という行為そのものを「自分探し」に例えることがしばしばある。
人は旅の先に自分の姿を探し求めるという論調だ。
しかし、これには少しばかしの疑問が残る。本来旅とは自分にないものを求めて出かける行為であり、その先に自分そのものがあるとは考え難い。そう私はこれまで思っていた。

しかし、この写真を見て、想いを廻らせたとき、その考えを改めようと思った。
旅先で何かに出逢ったとき、新たな発見をしたとき、感動を覚えたとき。私たち自身の姿は誰かの目に映る、誰かにとっての風景の一部と化しているのだ。誰かにとって、自分が好ましい風景の一部となっている。ならば、そのときの私たちは探すべき自分に出逢えたということだ。

旅というのは至極エゴイスティックな行為だ。
自分の人生とは無関係の場所に自分自身を見つけだすだなんて、勘違いも甚だしい。
だけれど、見つけるではなく、作りだせたならどうだろう。なにも持たないストレンジャーたる私たちに、風景は意味を作りだしてくれる。そんな風に考えられたら、旅に出る自分も好きになれるかもしれない。

無意識のうちに、旅路の先に僕らは、自分自身の姿を映しだしてしまっている。

逢崎らい / @aisakiLie

舞台『ブラックダイス』感想 -演じるということ-

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劇団Flying Trip様の舞台『ブラックダイス』
4月23日の夜A公演を観劇した。

伊波杏樹さんが主演の舞台ということもあり、舞台上で役者として輝く彼女の姿を生で見たいというのが、当初の目的だった。
しかし、観劇して、舞台全体を通して思うこと、感じとったことを言葉にしたくなったため、今回初めて、舞台の感想を文章として綴ろうと思う。
舞台を実際に見られた方、そして今回は都合が合わずに観劇できなかった方にも、どうか舞台を通じて視えた景色、得た感情が伝わりますように。

以下、当舞台のネタバレを含みます、ご注意ください。

ブラックダイスにおいて印象的な側面をいくつか挙げてみよう。
たとえば、主人公である咲子の変化の一面。
人生を悲観し自暴自棄になっていた咲子が、様々な人に出会い、自らのことを話し、誰かの話を聞くことのできる人間にまで成長していく姿は、徐々に緊張感の増していく展開と相まって観る者を勇気づけてくれた。
たとえば、詐欺師たちによる暗躍の一面。
黒川は自らの能力をいかんなく発揮し、周囲の人間たちをものの見事に欺いていく。二面性をもつ表情、彼の顔面がぐにゃりと曲がり大声をあげる瞬間、私たちは何度も恐怖を叩きつけられた。またもう一人の詐欺師、赤木の姿も忘れられない。黒川と違い、彼は終始どこか遠いところから俯瞰しているような態度をとり続ける。物語がどこに向かおうとしているのか、全てを最初から知っている。まさにブラックダイスとは、詐欺師の手のひらの上のダイスのような物語であり、登場人物の行動は全て彼の手玉にすぎなかったのだろう。黒川の上げる怒号がドキリだとしたら、赤木の罵声はゾクリ、不安を呼び寄せるのだ。
たとえば、個性豊かな登場人物に笑顔にさせられる一面。
シリアスな始まりを迎える物語、息を飲む緊張感に包まれた私たちに対して「もっと自然に楽しんで?」と語りかけてくるかのように、絶妙のタイミングでコメディが挿入されていた。しずくが急にエヴァの話をし始めたときは、思わずきょとんとしてしまい、そして、次の瞬間には笑いが堪えられなくなった。おどけた調子の古田は、ときにバカバカしく、だけどときにイケメンで、まさに三枚目と呼ぶにふさわしい、私たちを安心させてくれる人物だった。
たとえば、愛に涙する一面。
どうして、咲子は芽生に対して黒川の本性について話し、彼女に幸せになってほしいと願ったのか。どうして、成沢は咲子の正体に気づいていたにも関わらず、最後まで口に出さなかったのか。成沢が違法賭博にまで手を染めてしまった真意。咲子が見破ったイカサマとその理由。最後に黒川の口から漏れてしまった芽生への想い。復讐劇を題材にしているにも関わらず、ブラックダイスという物語には、誰かから誰かに対する愛情が根付いていた。誰かを悪者にして得る感動ではない、皆が救われることによる感動がたしかに、その舞台上にあった。
少し思い返すだけでも、書きつくせないほどの光景が頭の中にありありと蘇る。

では、これらミクロな感想を貫き通す、一本の筋を作りだすブラックダイス全体のテーマとはなんだったのだろうか。

私の回答はこうだ。
ブラックダイスとは「演じること」そのものをテーマにした作品だった、と。

咲子は実の父親を騙し、金を奪いとるために、本来の自分とは全くことなる”咲子”という人物を演じていた。
成沢は厳格な経営者たる自分と、娘を溺愛する自分、それぞれを互いに演じながら、自分の本性を隠していた。
芽生はワガママな自分と純粋な自分、そのふたつの演じ分けが自ら制御できず、周囲の人間からの誤解を招いていた。
黒川は計画を遂行するために好青年を演じ、芽生や成沢の懐へと潜り込んだ。

列挙してみるとやはり、彼女らは皆、本来の自分ではない誰かを演じていて、それが原因となって物語が廻っている。
考えてみると、そもそも、メインの舞台となるキャバレーとは、まさに「演じること」を商売にしている場所なのだから、このテーマにぴったりだと言える。。

そしてもう一点、「演じること」というテーマに深みを持たせているのが、終盤のカジノシーンだと私は考える。
ギャンブルとはつまり、演じる者同士の対決の場だ。演じきれなくなったものが負け、演じ通したものが勝つ。騙し合いの物語に決着をつけるのに、まさにふさわしい場所に違いない。

しかし、この物語の最後にはイレギュラーが発生する。
最後の大勝負を託された咲子は、父親に勝ってほしいという自らの感情に嘘がつけなくなる。つまり、演じることができなくなってしまうのだ。
演じることができなくなった彼女に待っているのは、本来負けのはず。
だが、彼女が手にしたのは大金と権利書、当初の目的であった勝ちを手にする。
いや、正しくは少し異なる。昔の自分にとっての勝ち、現在の自分にとっての負けを手にしてしまうのだ。

咲子は自らを振り返り、負けっぱなしの人生だと称する。その言葉に違わず、やはりラストのギャンブルは彼女の感じる負けで幕を閉じる。
しかしどうだろう、あの勝負の負けに、これまでの彼女の人生に影を落としていたような悲壮感は漂っていただろうか。
答えはNOだ。負けで幕を閉じたはずの物語は、その先、ハッピーエンドへと舵を切っていく。
それはなぜか。

もしや、あのダイスの回転が止まった瞬間、ブラックダイスという作品から「演じ切る=勝ち」の方程式が崩れ去ったのではないだろうか?

演じることをやめた咲子は、父親の本当の気持ちを知り、演技の象徴であるキャバレーを立ち去っていく。
経営者という責任から解き放たれた成沢は、ようやく古田に彼の周りで起こっている出来事の全てを話すことができた。
芽生は人によって分けていた表情がひとつになることで、純粋な女の子として皆の前で笑うことができた。
そして、黒川は演じきっていたはずの自分の本当の気持ちに気づきながら、舞台の闇へと消えていく。「お前はまだ戻れる」そう黒川に話す赤木の言葉も、演技ではない本心なのだろうと、私は信じたい。

さて、演じることから解放された登場人物だが、彼女らの歩みを見ているとあることに気づく。
それは「演じること」そのものが、その後の彼女らの人格形成そのものにつながっているということだ。

そのことが顕著なのはやはり、主人公である咲子だろう。
冒頭での彼女は陰険そのものだった。笑顔は一切見せない、人の思考を全て邪推する、猫背な姿勢。おおよそハッピーエンドを迎えるにふさわしくない。
しかし、彼女は別の自分を演じることで変わっていく。笑顔を覚え、人の話をしっかりと聞くようになり、礼を送る姿も様になっていく。
特に自分自身についてどう考えるかという点は、最初と最後で大きく変わっていた。
最初、彼女は「自分には何もない」というのを声高に嘆いていたが、キャバレーの客である八代と出会うことで、自分自身の持つ魅力というものに気づかされる。父親に対する感情が変わったのも、ひとりでは気づけなかった、自分自身の人生で積み上げてきたものに向き合うことができたからだろう。
余談にはなるが、私はこの八代と咲子の出逢いのシーンがこの舞台で一番印象に残っているほどに大好きだ。慣れ合うことの弱さを嘆き、孤独の強さを説く。八代こそがこの物語において「演じること」という鎖から除外された、革新をもたらしたキーパーソンなのだと考えている。

もうひとり、演じることが成長へとつながっていたのが成沢だ。
彼は芽生を甘やかしている自分と厳格な自分とを比べて「娘がこの自分の姿を見たら幻滅するだろう」と語っている。彼にとって演者たる自分とは恥ずべき存在なのだ。
だが、物語終盤、咲子に見せた成沢の表情は間違いなく、父親たる自分だった。父親ごっこを続けていたその顔で、彼はもうひとりの娘と向き合うことができたのだ。ここでもやはり、演じていたものがそのまま自分という人格の形成へとつながっている。
また、やはり成沢に対しても「演じること」の鎖から除外された、彼にとっての救世主が存在する。それが古田だ。彼が自らの信念を貫き通すことができたのは、古田への想いがあってこそであり、だからこそ成沢はこんなにも魅力的な人物として描かれていたのだ。

ブラックダイスは徹底して「演じること」を描きだした舞台だった。
そして観客たる私たちにその魅力を伝えてくれたのは、ほかでもない「演じること」を全身全霊でやり遂げた役者の皆様に違いない。
しばしば、演技を通じて役者自身が新たなものを得るという話を聞くことがあるが、なるほどそういうことなのかと、観劇を通じて知ることができた気がする。

最後に、初めて見たオリジナル作品の舞台がブラックダイスでよかったと、私は心から思う。すぐ目の前の舞台から伝わってくる迫力、空気の振動、ありありと瞳に映る演者ひとりひとりの表情。どれも忘れられそうにない。
「舞台っておもしろいな」と教えてくれたのは、この舞台に関わった全ての方々のおかげだ。興奮冷めやらない私は、また他の作品や、他の劇団を見るために劇場へと足を運んでしまうだろう。

「演じること」は舞台上だけでなく、観客席にいる我々までもを変えてしまった。
演劇という新しい世界への興味は、小さな花を私たちの胸に芽生えさせたのだ。

逢崎らい / @aisakiLie

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色3 -夜明けと夕焼け-

 

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(撮影:逢崎らい/koiwaslie)

 ●序論

Aqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』が4月5日ついに発売された。
当ブログでは視聴版段階でHPTから感じとったことを数回記事にしてきたが、フル音源を聴き、そしてフルPVを観て、視聴版に引き続き感じた景色、そして視聴版では感じることのなかった新たな景色を感じとったので、引き続き文章として記していくこととする。

尚、当記事はいわゆる考察的なものではなく、あくまで個人の主観に基づく、理論根拠に欠ける殴り書きだということをあらかじめご了承いただきたい。
思考と弁舌による屁理屈に付き合う余暇に溢れる獄舎にはぜひ楽しんでいただければい思う。

では前置きはさておき本題に移ろう。

今回テーマとするのは、とある部分の歌詞だ。以下にその歌詞を引用する。

「知りたいのは 素晴らしい夜明けと 切なさを宿す夕焼け」

2番Aメロのこの歌詞は、視聴版では聴くことのできなかった部分の出だしということもあり、印象深い方も多いと思う。私もそのうちのひとりだ。加えて、私は最初フルを再生し、このフレーズを聴いた瞬間、鳥肌が止まらなくなった。
なにがそこまで衝撃的だったのか。その理由についてを以下に記していこう。
つまり今回の記事はこのたった24文字のフレーズだけをひたすら掘り下げていく内容の非常にミクロな視点による記事である。

●景色に対する表現方法の差異

最初に着目したいのが、2つの景色を示す言語表現についてだ。
直感的にわかる通り、このフレーズは「夜明け」と「夕焼け」の2つを並列して表現を行っている。加えて、それぞれに相反的な表現を載せて、結果「夜明け」と「夕焼け」を対比している。
問題となるのは、対比を生み出している表現、つまり「素晴らしい」と「切なさを宿す」という言葉の選び方だ。
まず「夜明け」に対する「素晴らしい」という表現について考えよう。
夜明けとは、始まりの象徴として描かれることの多い情景だ。また「夕焼け」に対する「切なさを宿す」という表現についても、終わりの象徴としての夕焼けの表現として問題はない。
「素晴らしい夜明け」と「切なさを宿す夕焼け」という二つを別々に注目してみると、特に目立った違和感はないように思える。しかし、二つを並列して見比べると、ふとある違和感が生まれるのだ。

その違和感とは、夜明けと夕焼けのそれぞれに対する表現技法の差異だ。

「夜明け」に対する「素晴らしい」とは、いわばただの一般論にすぎない。実際の夜明けの風景を見たことがない人間でも、その光景を想像して素晴らしいや綺麗といった感想を抱くのはたやすい。
一方で「夕焼け」に対する「切なさを宿す」は、前述の表現とは性質が明らか異なる。人間的存在ではない夕焼けに対し、切なさを宿すという表現が用いられているということから、ここでは擬人法に注目する必要がある。
擬人法とは一般的に、対象に親近感を覚えているとき用いられる表現である。つまり、このフレーズにおいて夕焼けとは夜明けに比べて、表現者にとってより身近な存在だということだ。
加えて、綺麗や美しいなど一般論で夕焼けを語るのではなく、あえて切ないというマイナスな感情表現を使っているところから、なにか夕焼けに対して特別な感情を抱く人物によって記述された歌詞ではないかと想像できる。

夜明けと夕焼け、2つの表現方法には明らかな差異があるのだ。

では、その違和感を踏まえて、私はある仮説を立てた。

もしかして、この表現者は夕焼けを経験したことはあるが、夜明けを経験したことはないのではないか?

Aqoursにとっての夜明けと夕焼け

そこで、ふと考えついたのがAqoursと夕焼けの関係性だ。
地図を見ればわかる通り、内浦・沼津地区は伊豆半島の西側に位置している。そして西伊豆からは山々に阻まれて、東から昇ってくる太陽を直接的に見ることができない。
つまり、Aqoursという沼津に住む人間にとって身近な存在なのは、夜明けではなく、圧倒的に夕焼けなのだ。

先述したように、夜明けと夕焼けは始まりと終わりの象徴であると捉えることができる。よって、言い換えるなら、Aqoursにとって身近なのは「始まり」ではなく「終わり」ということになる。
これはラブライブ!サンシャイン!!という作品のテーマ性を踏まえると、より確かな推測となるだろう。廃校や夢を諦めること、田舎が普遍的に孕んでいる閉塞性など、どれもが終わりに繋がるテーマだろう。

またラブライブ!サンシャイン!!においては、執拗と思えるほどに夕焼けが描写されている。アニメ劇中はもちろん、G'sピンナップ等、なにかしら夕焼けに特別な意味を持たせていると考えたくなる。

●知りたいの向く先

では、二つの対照的な景色に向けられた「知りたい」という感情は一体どう考えるべきだろうか?

「夜明け」を彼女たちは知らない。だからこそ「素晴らしい」という言葉しか使えない。HPTが旅をテーマとしているのなら、彼女たちはまさに旅先で「夜明け」そのものを知りたいと歌っているのだと私は思う。

「夕焼け」はどうだろう。身近な夕焼けという存在のことを、彼女たちは十分に知っているはずだ。しかし、それを知りたいと歌っている。もしかして、この「知りたい」は「切なさを宿す」の方に係っているのではないか。
夕焼けが終わりを象徴しているというのは、あくまで客観的、つまり物語の外から見ている私たちが抱く考えなだけであって、彼女たちは夕焼けを現象そのものとしか見ることができないはずだ。しかし、その夕焼けを見て、彼女たちは確かに「切なさ」を感じている。
どうして夕焼けが切なさを宿しているのか。その意味・理由を「知りたい」と歌っているのだとしたら、並列された夜明けと夕焼けにはさらに、現象と感情という二つの対比が新たに生まれることとなる。

桜内梨子がこの歌詞を歌うという意味

ところで、この歌詞は桜内梨子がソロで歌いあげているパートである。
そこで先に述べた言葉選びの解釈に、さらに桜内梨子という人間の背景を乗せて、もう一歩考えを踏みこませてみよう。
梨子は東京という東から、沼津という西にやってきた。東というのは夜明けのやってくる方角であり、西とは夕焼けが沈んでいく方角である。東京に住んでいた期間と沼津の期間を比べると、彼女にとって身近なのは夕焼けではなく夜明けではないだろうか?
この疑問は梨子の抱える物語に解釈の糸口があると思う。彼女は東京にいたころ、自らの支えであったピアノの道を一度諦めている。しかし沼津にやってくることで、新たな道を見つけ、同時にピアノに向き直ることに成功した。
つまり、彼女は東にいた頃はその夜明け自体を経験したことがなかったのだ。代わりに、西にやってきた彼女は夕焼けを経験することで、切なさ=自らの感情を知りたいと歌えるようになった。
思えば、アニメにおいて彼女が最初に目にしているのは夕焼けであり、そのときの彼女はとても切ない表情をしている。それがPVではピアノと共に清々しい顔で夕焼けを見送っているのだから、成長と呼ぶほかない。

●本当に夕焼けは終わりの象徴なのか?

また、少し論点はずれるかもしれないが梨子が歌う意味として注目したい点があるので述べておこう。彼女の経験した東京から沼津への引っ越しとは、ある一種旅であると捉えることができる。引っ越しの際、彼女は当然不安や絶望にさいなまれたことだろう。それこそ、本質的に終わりの象徴としての西の描かれ方だ。
しかし、実際彼女を待ち受けていたのは終わりではなく、むしろ始まりだった。PVでは彼女は夕焼けを嬉しそうに見送っているし、不安を浮かべている様子もない。
つまり歌詞で描かれている内容と違い、彼女にとっては夕焼けこそが始まりの象徴であると見受けることができる。

そして以前の記事でとり上げたように、HPTのPVは沼津から豊後森、東から西への旅路を表現している一面がある。そして梨子が始まりを見つけた旅路も東京から沼津、東から西へ向いている。

もしかしたら、これからのAqoursにとって、夕焼けとは終わりではなく、始まりの象徴になっていくのかもしれない。
ここまでで長々と語ってきた夜明けと夕焼けの象徴性は、あくまでもこれまでの彼女たちが抱いていた感情であり、「知りたい」と願った先、実際にその存在と意味を知ったとき、彼女たちはまた違った言葉で2つを歌うのだろう。

●まとめ、ミクロからマクロへ

しかし、当記事で捉えたのはワンフレーズかつワンシーンという、あくまで徹底的にミクロな視点にすぎない。そして、HPTの描こうとしているテーマは当然、このたった一ヶ所で語ってはいけないものだろう。

そこで次回以降、当記事で得たミクロ的視点をマクロ、つまりPVと曲全体に応用しながら、HPTのテーマ性について考えていきたいと私は思う。特に「夕焼け」「旅」という言葉は、作品全体の根底に関わってくると私は考えているため、深く推論していこう。

Aqoursという列車、旅というテーマに乗せて歌われる終わりと始まりの景色、その先になにが待っているのか、もうしばらく読者には、思考と弁舌の旅に付き合ってもらいたい。

(逢崎らい / koiwaslie)

 

【以前の記事】

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色2 -東と西- 

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち- 

NEXT STEP"旅立つ"ということ 

 

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色2 -東と西-

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前回の記事(HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち-)に引き続き、Aqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』(以下HPT)について個人的に感じた景色について記していきたいと思う。

今回は、沼津という閉じられたコミュニティの内側の物語だったはずのラブライブサンシャインに突如現れた、完全に外側に分類される存在の違和感と、その解答についてのお話。

ラブライブサンシャインというプロジェクトを語るうえで欠かせないのが、やはり聖地と呼ばれる、劇中でモデルになった場所の存在である。地元である現実の沼津での盛り上がりが、アニメ1期終了後の現在までコンスタントに継続しているのは、この要素に起因するところが大きい。地元とファン、相互の関係性こそが作品の根底にあると考えている人間も少なくないだろう。

HPTのPVに新たな聖地を期待した人はもちろん多いだろう。

実際にPV中ではたくさんの聖地が提示された。三島駅出発の伊豆箱根鉄道9番線ホーム。ドールハウスKIMURA様。さらには韮山駅伊豆長岡駅にポツンと存在する、何の変哲のない踏切まで一夜にして聖地と化した。こんな機会がなければ絶対に人も集まらなかった場所が注目されるというのは、まさに聖地という文化の功績に違いない。

しかし、サンシャインと聖地という切っても切り離せない関係性のなかで、大きな違和感を覚える風景が生み出された。

それはダンスシーンに映し出される背景だ。

ドラマシーンは風景が映るたびに瞬時に地元に詳しい人間によって特定がなされていった。しかし、ダンスシーンの背景についてだけはタイムラグが生じていたように思う。

特徴的に湾曲した建物。どこか廃墟を思わせる雰囲気。線路とSL。特徴的な材料は揃っているにも関わらず、沼津・伊豆界隈では聖地と認定できる場所がなかった。

それはなぜなのか。答えは単純。ダンスシーンの背景の元ネタとなったのは沼津が一切関係ない場所だったから。

場所は豊後森機関庫。なんと大分県だ。

ここで、当然の疑問が浮かぶ。

なぜ聖地として大分県豊後森を選択したのか?

サンシャインにおいて、物語の延長線上として描かれた東京や名古屋を除いて、関係のない地が聖地となることはなかった。そして先述したように、サンシャインは聖地という文化を効果的に使って発展してきた。突拍子もない場所を聖地にするということには当然リスクがある。これまでに完成された人の流れを壊す可能性もあるし、そもそも流れそのものが生まれない可能性もある。

そこで考えるヒントとなるのが、HPTがそもそも”旅”をテーマにした作品だということだ。

Aqoursにおいて旅といえば、誰もが思い出すのがアニメ劇中での東京への旅だろう。この旅は間違いなく、彼女たちに新たな景色を与えた。旅をテーマとするなら、そしてNEXT STEPを歌うなら、偉大なる先人たちへと近づく一歩、つまり"東”へと旅に出るというのが自然な物語だと思える。

しかし、Aqoursは”東”へと向かわなかった。自分たちの新たな舞台を象徴する場所として大分、つまり東とは真逆の”西”を選んだ。

これは明確な意思表示に違いない。μ'sの背中を追うのではなく、むしろ敢えて背中を向けるような、不敵で偉大なる挑戦への旅路なのだと。まさにアニメ劇中で千歌が語った「追いかけちゃだけなんだよ。輝くって自由に走ることなんだよ」を、今度は言葉ではなく行動で示しているのだ。

つまり、Aqoursがμ'sとは全く別の物語であるという主張だ。

しかし一方で、この沼津・東京・大分という3地点の位置関係は同時に、上記で語った意味合いとは全く逆の意味をも含んでいると私は考える。いきなり自己の主張を曲げるようで心苦しいが少しこじつけに付き合っていただきたい。

μ'sの始まりの地”東京”から見て、Aqoursの始まりの地”沼津”は南西方向にある。そして沼津から見て、Aqoursの旅路の先である"大分”はやはり南西方向に位置している。輝きが南西方向へと波及していると捉えると、やはりAqoursはμ'sが追い求めた物語の延長線上にいるのだ。

”西”という方向が輝きの向かう場所のメタファなのではないか、という理由はもう一つある。μ’sAqoursはそれぞれアニメ劇中で国府津海岸から夕焼けを見て、自らの進む方向の決意表明をしている。夕日が落ちていく方向はまさに”西”だ。彼女たちが前に進むとき、その身体は西を向いている。

ところで、ダンスシーンの舞台となった豊後森機関庫は転車台の展示でも有名だ。転車台とは端的に言えば、真っ直ぐにしか走れない蒸気機関車の走る方向を変えるための装置である。NEXT STEPが発表されて、これまでとは違う方向へと走り出したAqoursの舞台装置としてはピッタリだし、たどり着いた先でまた方向を変え違う景色を目指す彼女たちをどこか期待してしまう。

結びに、豊後森機関庫には国鉄9600形蒸気機関車29612号機というSLが展示されているのだが、彼のたどった運命が少しおもしろい。というのも、彼は当初解体予定の車両だった。しかし、豊後森に移転され展示された結果、まさにこの場所のシンボルとなり、いわばアイドルと呼べる存在になった。

本来なくなるはずだった存在が人を集めてセンセーションを起こす。

……奇妙なシンパシーのせいでまた旅が恋しくなってしまう。

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち-

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(撮影:キタモリテツヒト / @sazanamiPS / さざなみ写眞館)

www.youtube.com

記念すべきAqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』(以下HPT)が私にとって衝撃的な内容であったことは、前回の記事「NEXT STEP"旅立つ"ということ」にて綴った。その感情を、そしてそこから視えた景色を正確に言葉として記録しておきたく、改めて記事を書くことにした。もしかしたら数回に分けて言及するかもしれないし、この記事ただ1回だけにとどめるかもしれない。ただ、CDが発売されるまでの、わずか1ヶ月という短い期間に覚えた感情を大切にしておきたい、そういう文章だ。

HPTはタイトル通り電車をモチーフにした楽曲だ。
ではなぜ電車をモチーフにする必要があったのか、そしてそこに秘められた意味とは何か。
電車によって描かれた、彼女たちの旅立ちについて考えてみたいと思う。

HPTのPVは松浦果南がどこかへ旅立つシーンから始まる。その表情はどこか物憂げで、正体の知れない不安感を私たちの胸に満たしてくる。タイトルの時点で陽気なアッパーチューンを期待していただけになおさらだろう。

Aqoursの物語において、旅とはどんな存在であったかを振り返ってみよう。
彼女たちにとって旅立ちが不安として描かれたことは少なかった。μ'sという存在との出会いはまさに旅先の秋葉原でのことだった。引っ越しという旅を経験している梨子は、その移動自体の不安を口にはしていなかった。アニメ劇中で果南が鞠莉を送り出したのも、自分たちから離れた旅立ちの先に新たな希望があると信じての行動だ。

彼女たちの一歩は常に希望・喜びへと繋がっていた。行動した先には常に輝きが待っているのだ。

どうして、彼女たちにとって、旅立ち=希望という構図が成り立っていたのか。
それはこれまでの彼女たちの旅は、あくまで決められた範囲内、つまり境界の内側での出来事に過ぎないからだと私は考える。
アニメ最終話の東海地区予選も、結局は沼津から応援に駆け付けた人間たちによって作りだされた盛り上がりであった以上、彼女たちはアニメ1期終了時点では沼津の内側からまだ旅立てていない。もう少し言及するならば「MIRAI TICKET」という楽曲自体、船出を歌ってはいるが、その進行方向は現在→未来という時間的なものであって、場所的・空間的な移動ではなかった。
梨子の引っ越しについては、少し特殊ではあるが、あらかじめ他者によって作られた移動であることから、彼女にとっての内側そのものが強制的に移動させられてしまっているのだろうと理解する。
彼女たちはまだ内側から外側へと旅立てていない。
動かせているのは内側だけであって、外側を動かす域にまではたどり着けていない。

一方でHPTはどうだろうか。
AメロBメロを歌唱するのは、果南・善子・花丸の投票トップ3。それ以外のメンバーはコーラス以外で歌唱しない。さらにPVにおいても、ドラマシーンでは歌唱する3人以外は一切登場しないという徹底っぷりだ。
地元や仲良しといった内側を想像させるモチーフは一切含まれていない。
ただただ、電車と不安が結びつけられる。

彼女たちにとって電車の持つ意味とはなんだろう?
その理解のために、まずバスと電車の比較から始めたいと思う。
田舎に住む人間にとって、一番身近な公共交通機関はバスだ。「君のこころは輝いてるかい」やアニメ劇中での会話シーン、さらには現実のコラボにおいても、サンシャインの物語でバスは有効活用されてきた。
バスの欠点は遠くに移動するのに適していないというところだ。作中で彼女たちの日常の乗り物は沼津という街の内側でしか動くことができていない。
バスとは旅立ちを描くのにはあまりにも力不足なのだ。

一方で電車は田舎の人間にとって特別な乗り物だ。ドラマでも映画でもアニメでも何でもいい。田舎の人間が都会へと旅立つシーンを思い浮かべたとき、あなたの頭の中には電車が思い浮かんだに違いない。
「恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう列車で」そんなマスターピースがあるほどに電車での移動は普遍的に人々の心へと特別な意味をもたらす。
またアニメ劇中においても、電車での移動は彼女たちにとって特別だった。1回目の旅は6話7話で東京を訪れて自らが井の中の蛙だということを思い知らしめ、2回目の旅は12話でこれから先自分たちが歩むべき道、まさに路線が提示された。少々脱線してしまうが、1話で千歌と曜が修学旅行で東京を訪れた際、彼女たちは東京都という内側を移動する手段として電車を使ったことになる。電車を使って移動した先で出会ったのが彼女たちの今後を決めるμ'sだったというのは興味深い。

電車とはまさに新たな旅立ちのモチーフとして彼女たちの瞳に映る。
それは「内側から内側」の旅とは異なる「内側から外側」への旅立ち。
Aqoursというグループが執拗に「0から1へ」を主張することに、違和感をもっていた人間は少なからずいると思う。なぜならアニメ劇中では地元に愛され予選を突破するだけの実力を持ったアイドル、そして現実ではμ'sという大先輩をもつ成功がほぼ約束されたアイドル。0という言葉がただの卑下にしか聞こえないというのも、あながち間違いではないだろう。
しかし改めて考え直してみると、0とはつまり、1に満たないという意味にも捉えることができる。
言い換えるとこうだ。「0から1」とは「1という内側と外側を隔てる境界線。その内側を充足させること」
0から1を完了した彼女たちが次に目指すのはNEXT STEP。これについて興味深いのは「0から1」と異なり、1からの先が記されていない点だ。1から先は2かもしれない、10かも、100かも、いやさらに巨大な数字かもしれない。
数字を記さなかったことにどんな意味があるのか。それは「内側を作らない」ということだ。これから行う活動は、常に外側へと向き続けていないといけないという、彼女たちの強い意志の表れなのだ。

NEXT STEP=新たなる旅立ち、新たなる挑戦。
内側から、そして外側から、彼女たちが視せてくれる新たな景色がこれから楽しみで仕方ない。

 

NEXT STEP"旅立つ"ということ

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2017年3月3日に放送されたAqours浦の星女学院生放送にて、4月5日リリースの新曲『HAPPY PATTY TRAIN』の視聴動画がついに公開された。

明るく勝気な果南がセンター、さらにタイトルが推してくる楽しげな雰囲気。おそらく誰もが、ライブで盛り上がる系のアッパーチューンを予想していただろう。

しかし、公開されたのは、私たちの全く予想だにしていなかった一曲だった。
ピアノイントロの切なさ。物憂げな果南の表情。秋めいた景色。廃墟めいた雰囲気を漂わせる豊後森。それぞれのソロ歌唱のみで構成されたAメロBメロ。ドラマシーンに至っては他のメンバーとの交流すら一切描かれていない。
HAPPY PARTY TRAINは寂しさを演出することに全てを尽くしていた。

そして忘れてはいけない事実がひとつ。
この曲はAqoursのNext STEP projectの記念するべき第一曲目だということ。

なぜ、このような曲が、彼女たちの晴れの舞台、1から先への道のりに示されたのだろうか。
そんな疑問について考えたとき、ふとあるひとつの解答を思いついた。
"NEXT STEP"つまり旅立つということは、希望であると同時に、郷愁の象徴でもある。
旅立つということは自らの居場所を離れるということ。
彼女たちにとっての1歩目の先とは、沼津から日本、そして世界へと踏み出していくこと。自分たちも相手も、互いに互いのことを知らない外へと飛び出すことが旅立つということだ。
思えば、Aqoursの曲というのは内側について歌っているものがほとんどだった。「夢で夜空を照らしたい」はまさにその最たる例であった。Aqoursというアイドルは自分たちのことを歌うことによって、間接的に外へと影響を与えていたが、実質は内へ内へと歌い続けていたと考えられる。
けれど、内側に向かっているだけではいつか限界にたどり着いてしまう。他者に自分のことを伝えるには、自分を他者にとっての知らない存在、ストレンジャーにする必要があるのだ。

0から1への一歩という言葉も、もしかしたら内側と外側を表しているのかもしれない。
0から1へ向かう途中とは、内側で歩き続けること。
1から次のステップとは外側への、知らない世界への一歩。

NEXT STEP PROJECTの先に待っている外の世界。
『HAPPY PARTY TRAIN』は明確に外へ向かって歩み始めた曲だ。

Aqoursはこれから旅に出る。
彼女たちは自らを誰かにとってのストレンジャーに敢えて落としこもうとしている。
それは内側だけで済んでいたこれまでとは全く違う、厳しい世界に挑戦すること。
「はじまりとさよならを繰り返して」
彼女たちは確かな一歩をどこまでも歩み続けていく。

次の富士山もよろしく

 

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これは街と人と景色の共存する世界のお話。 

沼津・内浦地区に来訪する際、私はいつも予定を立てずに行動をしている。
それは、目的を持たずになんとなく訪れても、沼津という街は十分におもしろく心地よい場所だという確信があるからだ。見知った光景でも、季節、時間や天気が違うとがらりと表情が変わるということをこの街は教えてくれた。予定のない旅というのは、その日その瞬間ベストコンディションの場所に心置きなく向かうことができるので、その恩恵に強くあずかっているのかもしれない。
しかし、予定のない旅には欠点もある。それは同行者を募りにくいということだ。

聖地巡礼とはやはり、聖地たる特定のスポットに赴くことが第一の目的となるため、散策という行為とはまだ仲が悪い。特にラブライブサンシャインは毎月のように、アニメ放送中に至っては毎週新たな聖地が誕生してしまうので、それらを廻るだけで手一杯となってしまうのは必然だろう。

という理由もあり、私というストレンジャーが沼津を訪れる際はたいていひとり、多くともふたりの、聖地巡礼とはとても呼べない気ままな街歩きに落ち着くことが多い。

そんな旅ばかりしていると、ふとあることに気づいた。
歩いていると妙に地元の方に声をかけられるのだ。
その理由はなんとなくわかる。あまり観光客のいない場所を、視線をうろうろさせながら歩いている見知らぬ人間いたら、そりゃ誰だって怪しがって声をかけるに違いない。そんなネガティブな理由は差し置いておくにしても、複数人で既に会話を楽しみながら歩いている観光客に比べて、ひとりで歩いている人間にはやはり声をかけやすいのだろう。
見知らぬ人とすれ違いざまに挨拶を交わして、立ち止まって、気づけば立ち話が小一時間。そんな経験をしたのはこの街が初めてだ。

地元の方々と話していると開口一番必ずかけられる言葉がある。
ラブライブの人かい?」
そう呼ばれると、こちらとしてはなんとも言えない気恥ずかしさがあるが、その通りなのだから仕方ない。
「ええ、まぁそんなところです」
そんな風にぼんやりとした言葉と申し訳ないような笑みで返すと、決まって地元の方は純粋な満面の笑みで答えてくれる。

そういえば、少し話は逸れるが、先日、ツイッターでこんなツイートを見かけた。
「沼津に行くと特にアピールもしてないのにラブライバーだとバレてしまう。やっぱりオタクって一目見たらすぐにわかるんだな」
この発言には正しい部分もあるが、一方で少し間違っている部分もあると私は考える。
そもそも西伊豆の海岸地区という観光地は夏が最盛期であり、空~冬にかけてはオフシーズンになりがちなのだ。加えて、もともとの観光客はダイバーもしくはバスツアーが中心であり、それ以外の姿というのは比較的少なかった。
そんな場所に突然降って湧いてきたのが“ラブライブ!サンシャイン!!”という観光資源である。結果、これまで観光客の立ち寄らなかったような場所に次々と人が押し掛けるようになった。
つまり、長年その街を見続けてきた人間にとっては「見慣れないタイプの観光客がいる=その人はラブライバー」ということは容易に想定できるのだ。考えている以上に、田舎街というのは異質な存在に敏感だ。

閑話休題
さて、そんな地元との偶然の交流も毎回楽しみにしている旅の要素なのだが、先日ある印象的な会話に遭遇した。
日付は2017年2月26日、ちょうどAqours1stライブ2日目が開催されていた、いつもよりラブライバーの少ない内浦でのことだ。
その日もまた聖地でもなんでもない海を眺めていたところ、背後から「こんにちは」と声をかけられた。振り向いてみると老年の女性がにこにこと笑みを見せていた。恰好から察するに日課の散歩の途中といったところだろうか。
ラブライバーの人たちかい?」
「まぁ、そんなところです」
とてもじゃないが現代のアニメに関わりの一切なさそうな老女の口から、ラブライバーという言葉が飛び出してきたことは、まずひとつ驚きだった。お決まりの問いかけに、お決まりのふわふわとした笑みで返す。すると彼女は私の隣に並び、海を見やって話し始めた。
「あらー、今日は富士山が見えなくて残念だねぇ」
言葉につられて彼女の視線を追う。たしかに大きな雲に隠れて富士山はすっかり隠れてしまっていた。
「あー、さっきまでは頭だけ見えてたんですけれど、隠れちゃいましたね」
「天気のいい日はここから綺麗に富士山が見えるんだよ。ちょうどこの前なんかはね……」
そう言うと、老女はポケットに手を伸ばし、携帯を取り出した。慣れない手つきでスマートフォンの写真フォルダをスクロールさせる。流れるのは家族の写真とこの街の真っ青な風景の写真ばかりだ
「そうそう、これこれ」
老女がスマホを差し出す。画面には真っ青な海の上に雄大にそびえる富士山の姿が切りきられていた。
「この日はすごく綺麗だったんだよ」
顔のしわを深くして彼女は話す。まるで息子の自慢話をしているような、そんな調子だった。
「けれど本当に残念だね。あったかくなってくると霞んできて、今みたいに綺麗には見えなくなるからねぇ」
どこか申し訳なさそうな彼女に、私は何気なく答える。
「大丈夫ですよ。どうせ来年の冬も来ることになると思いますし、春も夏もいっつも来てますからね。多分、最近来てる人たちはみんなそうですよ」
すると、その言葉に彼女の顔はパッと明るくなった。
「そうかい。じゃあ、次に来たときの楽しみにしておいてちょうだい!」

どうして老女がそんなにも再訪の約束を喜んだのか。
観光シーズンの夏は富士山が見えづらい。オフシーズンの冬の富士山は人が来ないのでなかなか目にしてもらえない。ラブライブ!サンシャイン!!で街が湧き立っている今は、彼女にとって家族同然の富士山を披露する千載一遇の機会なのだ。
そういう意味で、このプロジェクトは人と街に希望をくれた。
自分たちの当たり前を自慢することは何より楽しく、そして生きがいに違いない。

別れ際、老女はこんな言葉を送ってくれた。
「次の富士山もよろしくね」

その街では確かに、人と景色が共に生活を送っていた。