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音楽とか小説とか映画とかアニメとか。好きなものを好きなまま書きます。

感想『medium 霊媒探偵城塚翡翠』(ネタバレ無) 霊媒×倒叙×翡翠ちゃんかわいい=怪作ミステリ

2017年10月。今村昌弘著『屍人荘の殺人』が発刊され、国内ミステリ大賞を総なめにし大きな話題となった。

そして2019年9月。賞レースを総なめにするミステリ小説が再び現れた。
相沢沙呼著『medium 霊媒探偵城塚翡翠』だ。

 

medium 霊媒探偵城塚翡翠

 

まず読了した感想、結論から書かせてもらおう。一言に尽きる。

 

翡翠ちゃんかわいい」

 

以上だ。
他の読者も読み終わったら必ず「翡翠ちゃんかわいい」と感想をまとめるに違いない。
実際、ネット上にはネタバレ無しの感想に困った読者たちの「翡翠ちゃんかわいい」が飛び交う羽目になり、ミステリ界に一体何が起こっているのか興味をもった人間が現れ、読み、「翡翠ちゃんかわいい」に汚染されることになった。いわば翡翠ちゃんかわいいゾンビ現象だ。かくいうわたしもそのゾンビのうちのひとりだ。
ちなみに作者もこんなツイートをしている。

 

 

よって、これ以上語れることがないのだ。
……とはいえ、それで終わらせてしまうのは非常にもったいないほどに、本作には魅力が溢れている。特に「すべてが、伏線」と銘打たれた、無駄のない緻密な文章構成、そしてそれを読者に意識させない読み口の滑らかさは絶妙だ。
そこでひとまず、ネタバレを抜きにして、本作の感想を記そうと思う。未読の方もどうか安心して読んでほしい。

 

本作は主人公の推理小説家・香月史郎と霊媒を名乗る少女・城塚翡翠による物語だ。
ある相談をきっかけに翡翠と出会った香月、二人は殺人事件に遭遇してしまう。香月は培った推理力、そして翡翠は超常的な霊媒能力を用いて事件を解決し、そしてまた新たな事件に巻き込まれていく。
構成としてはエピローグとモノローグ、それぞれの事件を取り扱った短編が3話、プロローグから示唆される連続殺人鬼を描いたインタールードが各話の幕間に挿入され、その決着が最終話として展開される。

 

大きな特徴はやはりタイトルを冠している「霊媒」の存在だろう。
霊媒たる翡翠はその能力により、事件の真相、もしくは手掛かりを入手できる。しかし、当然、霊媒には証拠能力がない。「わたしはあの人に殺されましたー!」「よしっ!逮捕だ!」が即成り立つなら世の中は霊媒師で溢れかえり、探偵は路頭に迷うに違いない。
霊媒では逮捕ができない。そこで活躍するのが主人公香月による捜査と推理だ。警察とのコネを使い証拠を手に入れ、推理小説家として培った論理構築力で、非現実である霊媒と現実である事件とを結びつける。

通常の推理小説であれば「推理→真相」で物語が進む。それに対し、本作では「真相→推理」という逆算の推理が用いられている。
つまり、本作は霊媒能力を用いた「特殊設定ミステリ」であり、同時に、真相から犯人やトリックを暴く「倒叙ミステリ」でもあるのだ。

 

この「逆算の推理」が読んでいてなんとも心地いい。
通常、ミステリには推理の可能性が無限大に存在している。全てが伏線と銘打たれている本作においては、普段より疑い深くなってしまうせいで、想像の余地はさらに大きく広がるだろう。
だが、倒叙ミステリであれば読者の負担は大きく和らぐ。「この描写は真相を導くために必要か否か。どう利用すれば真相を導けるか」の推理・検証に思考が絞られるからだ。この論理化作業には主人公香月の推理小説家という設定が役立っている。読者としても、事件から解決までの間の、空白化された物語を補ってくれる彼の存在は非常に心強い。ミステリ初心者でも安心できる強い味方だ。
加えて、各短編で新たに明らかにされる翡翠の能力や人間性、連続殺人犯との決着へ期待を高める描写とさらなる謎を臭わせる幕間。この繰り返しがちょうどいい塩梅で、読む手を休めさせなかった。
なお、それぞれの事件の推理難易度は比較的甘口だ。ミステリ好きからすると少し物足りないかもしれない。しかし短編ミステリである以上、謎は複雑すぎず、スパンッと1点で連鎖的に解決できるほうが読み心地よくて個人的には好きだ。

 

また本作はバディものとしても魅力的だ。
ホームズとワトソン、火村英生と有栖川有栖明智恭介と葉村譲に代表されるように、ミステリ小説とバディものの相性は非常にいい。探偵ひとりでも事件は解決できるかもしれないが、それでは探偵の頭の中だけで全てが完結してしまい、読者が推理を楽しむことができない。探偵が自己完結する小説はミステリではなく探偵小説だ。
そこで探偵は助手の手を借りる。探偵は助手への説明を通じて読者へと思考を伝える。助手は読者の抱く疑問を探偵へ代弁してくれる。いわば助手は作品と読者の媒介だ。さらに二人の会話や行動から、キャラクタ性や関係性など、物語に深みが生まれる。

 

香月と翡翠もバディとなることで変化を迎えた人物だ。
翡翠霊媒の能力を「事件解決の役に立たない」と貶し、自らの存在そのものを責めたてるシーンがあるが、そんな彼女の負を消し去ったのが香月の存在だった。彼は霊媒翡翠しか持たない誇るべき能力だと賞賛し、自分と協力することで事件は解決できると断言さえする。他人からは理解されない存在、天涯孤独であると、ことあるごとに独りが強調される翡翠にとって、香月の言葉はまさに自らを照らす明かりだったのだろう

 

また香月自身も翡翠の存在により、内面に大きな変化を迎える。

その心中の変化をわかりやすく読者に伝えるために用意されたのが二人の恋愛要素だ。男女バディかつ一方が美少女ということで、期待はしていたが見事に答えてくれた。恋愛等の日常描写においては、日常の謎や青春を扱う作品を数多くリリースしてきた作者の手腕がいかんなく発揮されている。今作では殺人を扱うということで、全体的にシリアスな緊張感が漂っているのだが、恋愛要素が緩和剤として上手く働いていて、読み口が重くなりすぎてないのは流石だと思った。やはりかわいいは正義なのだ。翡翠ちゃんかわいい。

 

さて本日のメインディッシュである翡翠ちゃんのかわいさについて語ろう。
翡翠ちゃんのかわいさは一見してどこかテンプレートチックだ。圧倒的美貌、秘めたる謎。世間知らずで、年齢未満を匂わせる純粋な感性を持ち、天然のドジっ子めいていて、自らの能力に苦しんでいる。ここまでベッタベタなキャラクタ、胸焼けしないかと思うが、ご心配なく。本作は非常にシリアスなミステリである。

キャラクタ的魅力に加えて、翡翠ちゃんを中心にした描写は男子諸君のウィークポイントを狙い撃ちにしてくる。「やっぱりそういうとこ見ちゃうよねー」や「男の子ってこういうのが好きなんでしょ?」をものの見事に網羅してくるのだ。作者が「男子目線での女子の描写」にいかに長けているのかを思い知らされる。思えば過去作のマツリカシリーズのマツリカさんもフェチズムの塊だった。非常にポジティブな意味でキモチワルイ。
とまぁ、そんなかわいい翡翠ちゃんに対して男子たる香月が想いを芽生えさせるのも仕方ない。気になる女の子のことはもっと知りたくなるのは当然のことだ。探究心はフェチズムから生まれる。君の視点こそが読者の視点になる。だからもっとやれ。もっと悶えろ。もっと苦しめ。

 

ところで本作はバディものミステリとしては少し特殊な関係性をもっている。
事件の推理と真相の解明が探偵、その手助けをするのが助手であるとすれば、香月と翡翠の関係はそれに倣いつつ、別の側面も持っている。仮に推理を行う者を探偵と定義するなら、探偵は香月、助手は翡翠になる。しかし真相を掴む者を探偵と定義すれば、探偵は翡翠であり、香月の推理はむしろ助手的役割を得る。言い換えれば両者は共に、探偵であり助手なのだ。

香月が探偵で翡翠が助手というのは、作中での扱われ方、そして読者視点としても一般的だろう。一方で、霊媒以外の作中大部分で助手的な立ち回りをする翡翠が、タイトルである「霊媒探偵」つまり探偵役を冠しているのは興味深い。また助手役は探偵役と読者の媒介役と先述したが、香月は探偵翡翠の示した真相を物語として読者に媒介しているので、助手役を全うしているとも読める。

厚みを持った頼もしい関係性に見えるが、一方で、この相互補完構造は通常のバディ以上に危うさを孕んでいる。なぜなら、探偵がどちらか片方になった途端に推理か真相かの、どちらかが欠けてしまうからだ。よって事件は迷宮入りを果たしてしまう。

……実は作中では、未来でこの欠損が発生することがほのめかされている。香月と翡翠、どちらか片方だけになってしまった場合、果たして事件は解決できるのか?という疑問への不安と期待。それもまた本作を読み進める意欲へと繋がっているのだろう。答えが出るパートは本作随一の読みごたえなので、どうか楽しみにしてもらいだい。

 

最後に、ネタバレにならない程度に本作の神髄について踏み込む。
「すべてが、伏線」このキャッチコピーは「もう一度読みたくなる」や「ラスト一行で物語は変貌する」などの似た表現を含めて、昨今では陳腐化しつつある。カタルシスという報酬を約束することで興味をそそろうとしているのは理解できるが、同時にこれはとても危険な諸刃の剣として作者側にも襲いかかってくる。

「最初から隠してることがあるよ!最後に種明かしがあるよ!だからみんなも探してみよう!」と手の内を明らかにしたうえで挑発しているのだ。ミステリ初心者でも疑ったうえで読書に挑んでしまうし、熟練のミステリ猛者たちなら、裏の裏の裏くらいまで読んで考察にとりかかってくる。また、先に保障している以上、髙い水準のカタルシスが作品に要求されるのも理解しておきたい。「挑発してきたくせにこの程度のオチかよ」と興醒めさせてしまうのは、絶対にあってはならない。

 

しかし、こんな逆境にあってなお、本作はこのキャッチコピーを選んだ。なぜか。

「この言葉を冠すること」自体に意味があるからだ。

 

読者に対し、真っ先にこれを提示したことに、わたしは賞賛を送りたい。これは作者からの挑戦状だ。怪盗が警察に予告状を送りつけるのと同じだ。どうぞ警戒して読んでくださいと高らかに宣言しているのだ。

 

その挑戦に決着をつける最終章はまさに圧巻の出来としか言えない。
ここまで散々語り尽くした魅力が牙をもって襲いかかってくる。つまり「霊媒という特殊性」「倒叙ミステリという方法」「バディものとしての関係性」「翡翠ちゃんかわいい」「すべてが、伏線」がぎゅうぎゅうに詰め込まれた、もはや「答え合わせという名の暴力」と呼べる怒涛の展開が待っている。

ミステリ初心者なわたしはぼっこぼこにされすぎて、自然と笑いが込み上げてきて、むしろ一周して気持ちよくなったくらいだ。

 

以上、ネタバレのない範囲で感想を述べたが、この作品の魅力を語りきったとは到底言えない。もっと事件の仔細に触れたいし、翡翠ちゃんの魅力を語りたいし、香月もがき苦しめって言いたい。
なので、本ブログで興味を持った方はぜひ読んで、ネタバレ配慮に苦しんで、こう感想を述べてほしい。

 

翡翠ちゃんかわいい」

 

medium 霊媒探偵城塚翡翠

medium 霊媒探偵城塚翡翠

 

 

 

感想『恋と禁忌の述語論理』

恋と禁忌の述語論理 (講談社文庫)

感想

井上真偽著『恋と禁忌の述語論理』

 

森帖詠彦から数理論理学者の叔母、硯さんへの相談。それは名探偵が解決した事件、その推理の真偽の証明。記号化により推理は論理へと姿を変え、見えているはずなのに見えていなかった矛盾を示す。

 

まず本書の特徴といえば数理論理を用いた推理の証明に違いない。

『毒殺は故意か事故か』『不特定多数の容疑者』『殺人犯は双子のどちらか』など。取り上げられるのはマスターピース的な事件であり、そして提示される推理もまた“一見して”なんら違和感のない、筋の通った内容である。しかし、それで終わらないのが本書。推理論理学の天才である硯さんは、推理という弁論を論理学により記号化し、言語では煙に巻かれていた矛盾を露わにしてしまうのだ。各推理の証明に用いられる論理は一から解説がなされるため、まるで授業を聞いているかのような感覚で、文系人間でも読み解くことができるので安心できる。

 

難事件、名探偵による推理、推理の論理・記号化、論理的矛盾点の指摘、そして真実の提示。ひとつの事件に対して何度も引き起こされるカタルシスの快感こそ、本書を楽しむうえでの醍醐味に違いない。特に探偵の推理を論理学的に記号化していくパートでは、なんとなく理解しているつもりだった、なんとなく納得していたという、自分の認識の曖昧さを明確な形で指摘してくれるのが気持ちよくてたまらない。

 

ちなみに、私はレッスン3『トリプレッツと様相論理』がお気に入り。雪の洋館、双子、足跡トリック、そしてチェーホフといったミステリの定番。さらにヘンペルのカラスという論理学の定番。ともすればひどく古臭くなってしまいそうな話が、作者の手腕により新鮮な物語として綴られるのが興味深かった。

 

ところで本書はメフィスト賞受賞作なのだが、メフィスト系ミステリといえば『圧倒的な情報・知識量』『むせかえるほどのキャラクタ性』そして何より、これらを利用した『本質的たるミステリ』こそが持ち味だと私は考えている。本書においても前者二つは『数理論理学』『安楽椅子探偵たる硯さんと事件に対峙する名探偵』というエンタテイメントとして読み進めてしまうため、最後のひとつを読者に対して見事なまでに自然に・無意識的に享受させることに成功している。

ミステリ小説としてだけでなく、論理学・記号化により『今、自分が何を読んでいるのか?』を改めて認識するためのツールとして、最初から最後まで楽しむことができる一冊だろう。

 

恋と禁忌の述語論理 (講談社文庫)

恋と禁忌の述語論理 (講談社文庫)

 

 

僕らにとっての”未来”と”今”

TVアニメ『ラブライブ! サンシャイン!!』2期OP主題歌「未来の僕らは知ってるよ」 (特典なし)

 

この記事は現在2017年10月07日22時21分、つまりアニメ2期放送直前に執筆している。
公開は第1話放送後を予定しているので、もし的外れなことをこの記事中で語っていたら、どうか笑い飛ばしてほしい。

では本題へ。

本日2017年10月07日より、ラブライブ!サンシャイン!!のアニメ2期が放送開始となる。

放送に先立ち、先日アニメ2期のOPおよびEDのタイトルが公開された。
OPタイトル「未来の僕らは知ってるよ
このタイトルを見たとき、私にはある疑問が浮かんだ。
果たして、彼女たちにとっての“未来”とは一体何なのか?

そもそも、彼女たちにとっての“今”とはどこに存在しているのか?

未来。学校の統廃合の阻止、ラブライブでの優勝、スクールアイドルとして名を馳せること、沼津の輝きをとり戻すこと。考えられる候補は多数あり、現時点においてその正体を掴むことは難しい。
そこで彼女たちにとっての“未来”と“今”について、これまでAqoursの軌跡をもとにその正体を探っていきたいと思う。

なお、記事の性質上、一部μ’sAqoursの比較を行いながら推論を行う部分がある。
2つのスクールアイドルの比較を好まない読者にはどうかご容赦いただいきたい。

●アニメ1期時点での未来

最初に、Aqoursがこれまで描いてきた未来の姿について考えたい。
アニメ1期、及びその以前において、彼女たちにとっての未来とは「漠然とした希望」という言葉に尽きると私は考える。
千歌がスクールアイドルを始めた理由は「自分もスクールアイドルになれば輝けるはず」という曖昧なものであり、その目的が廃校阻止になったのは後付でしかない。12話で語った「自由に走ることが輝きに繋がる」という言葉も、裏を返してみれば、その先にある未来の正体がまだ掴めていないことを示している。
彼女たちの楽曲において、この特徴はさらに如実に表現されている。始まりの曲である『君のこころは輝いてるかい?』の«ちっぽけな自分がどこに飛び出せるかな わからない»や『決めたよHand in Hand』での«なにを探してる?まだわからないけど入り口はここかも»という歌詞はまさに、未来は今より輝いたものだけど、その正体は不明だという、漠然とした希望を語るのみなのだ。

さらに、未来そのものを歌っているはずの『MITAI TICKET』においても、«ミライへ旅立とう 青い空笑ってる(何がしたい?)»という歌詞はやはり、未来を歌うには力不足を感じえない。あくまでこの曲は現時点での未来へ向けた旅立ちを歌うものであり、未来そのものや目的を歌ったものではないと解するべきなのだろう。

つまりAqoursにとって、たしかに存在しているのは“今”のみであり、“未来”はイコール“知らない・わからない”の象徴であると考えられる。

ここで注目したいのは、彼女たちはそのわからない未来を希望、つまり夢であると確信している点だ。

なぜ彼女たちはそのわからない未来に希望を抱くことができるのだろう?

●「今が最高」の“今”とはなんだったのか?

ここで話をμ’sに移す。μ’sブームの代名詞といえばやはり、『僕たちはひとつの光』で何度も繰り返される«今が最高»という言葉だ。
また廃校阻止以降の2期『KiRa-KiRa Sansation!』においても«奇跡それは今さここなんだ»という言葉で、今を賞賛し続けている。
しかし一方で、デビューシングル『僕らのLIVE君とのLIFE』では«たしかな今よりも 新しい夢つかまえたい»と歌い、自らの“今”を卑下している。

これらの曲の間で起こった出来事で一番転換期と考えられるのは、アニメ1期で描かれた廃校阻止の達成だ。
「今=廃校、未来=廃校阻止」だったのが「今=廃校阻止」となり、「過去=廃校、未来=今」の構図ができあがった。
«時を巻き戻してみるかい?No no no»と歌うのは、彼女たちが過去を振り返る必要はなくなったということだ。
思えば、μ’sの未来は「廃校阻止」や「ラブライブ優勝」という確固たる目標として描かれていた。そしてアニメ1期2期でそれぞれ、それは実現された。

そこで以降の考察の材料として「μ’sにとっての今は未来によって定義される」という仮説を設定しよう。

Aqoursの“今”を定義するのは?

では話をAqoursに戻そう。

μ'sと違いAqoursはアニメ1期で廃校を阻止できなかったので、当然彼女たちが「今が最高」と歌う資格はない。また先述した通り、彼女たちの未来は不明瞭である。廃校阻止は確固たる目標であったとしても、それを実現させる手段は曖昧なままなのだ。
Aqoursの“今”や“未来”を語るのにはあまりに材料が少なすぎる。

そこでAqoursの“過去”に着目してみようと思う。

思えば、サンシャインのアニメは無印に比べて過去への言及が非常に多かった。梨子はピアノとの過去に向き合い自分の道を見つけ、善子は過去の自分との決別を図り、しかしその過去の自分を受け入れることでアイドルとして歩む道を見つけた。三年生はまさに過去のしがらみの象徴であり、彼女たちの活動によってAqoursが誕生したことも言うまでもない。
加えて、特に注目したいのはアニメ第6話だ。輝きを探す彼女たちが見つけたその正体は、自らを育てた街の景色だった。«消えないのは今まで自分を育てた景色»という歌詞はまさに、この回を一言にまとめるのにふさわしい言葉だろう。
“景色”という概念は言わずもがな、その空間が有する“過去”によって形成された“今”のことである。
助けてと叫んでいた自分を否定し、輝きはずっと自分の見る景色にあった、自分が一員として存在している景色のなかにあったと、千歌は物語の最後で語っている。

“輝き”がイコール“未来”を象徴する言葉であることは言うまでもない。では景色にある輝き、つまり過去の輝きは何に繋がるのかといえば、当然“過去”から観測した未来、つまり“今”が導きだされる。

前項に倣い仮説を呈するとこうだ。
Aqoursにとっての今は過去によって定義される」

●過去があるから今がある

この仮説をキャスト自身である現実世界のAqoursにまで適応させると、おもしろい知見が得られる。
例えば、斎藤朱夏氏や小林愛香氏はAqours結成以前からダンスを得意としていて、現在その実力は目を見張るものがある。伊波杏樹氏や鈴木愛奈氏はμ’s時代のラブライブファンとしての視点から、Aqoursラブライブ!サンシャイン!!の存在を観測している姿が散見される。
そもそも、ラブライブというコンテンツ自体、過去のμ’sがいたからこそ今のAqoursという新たなスクールアイドルが生まれたのだ。

●今があるから未来がある
以上を踏まえて『未来の僕らは知ってるよ』というタイトルについて考えよう。
未来が知っているのはもちろん、未来時点での過去、つまり現時点での今だ。
そして、未来の僕らが知ってる、知ることができたのは、今の僕らの努力があったからだ。
今のAqoursたちは一生懸命に未来の自分自身を作り上げている。
2期という未来が今を賞賛する言葉がまさに「未来の僕らが知ってるよ」に違いない。

●終わりに

現在進行系でAqoursの活動は拡大し続けている。
彼女たちがライブで歌う曲に、これからの彼女たちの未来を探るヒントがある。

«夢を捕まえにいくよ どんなことがおこるのか わからないのも楽しみさ»

«そうだ僕たちは まだ夢に気づいたばかり»

楽曲というのは当然、リリースした時点での心境、過去を歌ったものだ。
しかし同時に、ライブで歌われる現在、今においての心境も同時に歌っていると私は考える。
ラブライブ!サンシャイン!!の始まりの曲『君のこころは輝いてるかい?
そして第二の出発点アニメのOP『青空jumping heart
この二つはおそらく、これから先の未来でも変わらず歌い続けられるだろう。

僕らの夢=未来は、ライブ=今によって、常に更新され続ける。

«見たことない夢の軌道 追いかけて»
2期、3rdライブ、ファンミ、さらにその先。
Aqoursの見る夢を追いかけることのできる今と未来が楽しみでたまらない。

 

(2期1話視聴後追記)

未来の僕らは知ってるよ。今の僕らの努力が無駄じゃないことを。

 

 

 

旅路の先に僕らは何を映すのか

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(撮影:逢崎らい)

今回は、偶然撮影できた写真を通じた、ちょっとした小噺。

先日、4月16日開催の沼ラブに合わせて15~17日の沼津探訪を行った。
いろいろと目的はあったのだが、やはり一番は現在いずっぱこ線で行われている、HAPPY PARTY TRAINラッピング電車をこの目で見ることだった。
実物を見た感想等は、他で散々に語られているので、当記事では割愛しよう。ただ、デザインとして完成されたラッピングペイント、人々の生活に密着した空間を走っていく姿、そして地元の方々の反応など。目にして損のない、滅多にない経験ができるので、ぜひ走行期間中に来訪していただきたい。

では、冒頭の写真の話に移ろう。
ラッピング電車内のつり革はAqoursのメンバー9人のカラーに彩られているのだが、その中にひとつだけ、ハートを象ったつり革が用意されている。時期ごとにつり革か中吊りかの位置が変えられているようで、今回は津島善子の中吊りが掲げられていた。
(一応)善子推しの身としては、善子とハートを一緒に写真に収めなければならない。そんな使命感のもと撮影したのがこの写真である。

ハート枠での中吊りの切り取り方、ハートからピントを外してボケさせた点など、iPhoneカメラのわりに満足いく出来になったと個人的には思う。

しかし、今回この写真を取りあげて記事にしようと思ったのは、そんなこととは全く別の部分について言及したいからだ。

もう一度、写真を見ていただきたい。
中吊りの下、車中を進んでいった向こう側に、ひとりの男性の姿が写っていることに気づいただろうか>
手にカメラらしきものを構えているところを見るに、私たちと同様にHPT電車を目的にして、旅に訪れた人間に違いない。少し足を引いた体勢がまるでポーズをとっているようで、偶然にも関わらずなかなか様になっている。

さて、ここから先は写真という現実から切りとって、私個人が勝手に感じとった妄想のお話。

この写真を撮影し、男性の姿に気づいたとき、私のなかにビリリと電流が走った。
彼の姿はつまり、私自身の姿そのものの鏡映しではないか?
ラブライブサンシャインを目当てに沼津へ旅に来て、そこで展開される景色を切りとるためにカメラを構える。それはまさに私自身がこの写真を撮るために行っていた行為であり、そして同時に、写真に写る彼自身が行おうとしている行為である。
偶然、私の撮った写真が彼を写していただけで、仮に彼のカメラがこちら側を向いていたら、彼の撮った写真には間違いなく、同じ姿かたちをとる私がそこに写っていただろう。

カメラというものは、その場所の景色をそのままに切りとる装置だ。
では、写真に写りこむ私たちとは、一体何者なのだろう?

私はこの瞬間、つまり写真という媒体に収められた瞬間に、自らは景色の一部へと変化してしまうのではないかと考える。

「旅」という行為そのものを「自分探し」に例えることがしばしばある。
人は旅の先に自分の姿を探し求めるという論調だ。
しかし、これには少しばかしの疑問が残る。本来旅とは自分にないものを求めて出かける行為であり、その先に自分そのものがあるとは考え難い。そう私はこれまで思っていた。

しかし、この写真を見て、想いを廻らせたとき、その考えを改めようと思った。
旅先で何かに出逢ったとき、新たな発見をしたとき、感動を覚えたとき。私たち自身の姿は誰かの目に映る、誰かにとっての風景の一部と化しているのだ。誰かにとって、自分が好ましい風景の一部となっている。ならば、そのときの私たちは探すべき自分に出逢えたということだ。

旅というのは至極エゴイスティックな行為だ。
自分の人生とは無関係の場所に自分自身を見つけだすだなんて、勘違いも甚だしい。
だけれど、見つけるではなく、作りだせたならどうだろう。なにも持たないストレンジャーたる私たちに、風景は意味を作りだしてくれる。そんな風に考えられたら、旅に出る自分も好きになれるかもしれない。

無意識のうちに、旅路の先に僕らは、自分自身の姿を映しだしてしまっている。

逢崎らい / @aisakiLie

感想『ブラックダイス』 -演じて得るは幸か不幸か-

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劇団Flying Tripの舞台『ブラックダイス』4月23日の夜A公演を観劇した。

Aqoursで我が推しの伊波杏樹さんが主演、しかもオリジナル脚本ということもあり、役者として輝く彼女の姿を生で見たいというのが、当初の目的だった。しかし、観劇して、舞台全体を通して思うこと、感じたことを言葉に残したくなったため、今回初めて、舞台の感想を文章として綴ろうと思う。
舞台を実際に見られた方、そして今回は都合が合わずに観劇できなかった方にも、どうか舞台を通じて視えた景色、得た感情が伝わりますように。

 

以下、当舞台のネタバレを含みます、ご注意ください。

 

ブラックダイスにおいて印象的な側面をいくつか挙げてみよう。

 

たとえば、主人公である咲子の変化の一面。
人生を悲観し自暴自棄になっていた咲子が、様々な人に出会い、自らのことを話し、誰かの話を聞くことのできる人間にまで成長していく姿は、徐々に緊張感の増していく展開と相まって観る者を勇気づけてくれた。

 

たとえば、詐欺師たちによる暗躍の一面。
黒川は自らの能力をいかんなく発揮し、周囲の人間たちをものの見事に欺いていく。二面性をもつ表情、彼の顔面がぐにゃりと曲がり大声をあげる瞬間、私たちは何度も恐怖を叩きつけられた。もう一人の詐欺師、赤木の姿も忘れられない。黒川と違い、彼は終始どこか遠いところから俯瞰しているような態度をとり続ける。物語がどこに向かおうとしているのか、全てを最初から知っている。まさにブラックダイスとは、詐欺師の手のひらの上のダイスのような物語であり、登場人物の行動は全て彼の手玉にすぎなかったのだろう。黒川の怒号がドキリだとしたら、赤木の罵声はゾクリ。不安を呼び起こすのだ。

 

たとえば、個性豊かな登場人物に笑顔にさせられる一面。
シリアスな始まりを迎える物語、息を飲む緊張感に包まれた私たちに対して「もっと自然に楽しんで?」と語りかけてくるかのように、絶妙のタイミングでコメディが挿入されていた。しずくが急にエヴァの話をし始めたときは、思わずきょとんとしてしまい、そして、次の瞬間には笑いが堪えられなくなった。おどけた調子の古田は、ときにバカバカしく、だけどなぜかイケメンなときもあって、まさに三枚目と呼ぶにふさわしい、観客に安心を与えてくれる人物だった。

 

たとえば、愛情に涙する一面。
どうして、咲子は芽生に対して黒川の本性について話し、彼女に幸せになってほしいと願ったのだろうか?どうして、成沢は咲子の正体に気づいていたにも関わらず、最後まで口に出さなかったのだろうか?成沢が違法賭博にまで手を染めてしまった真意。咲子が見破ったイカサマとその理由。最後に黒川の口から漏れてしまった芽生への想い。

復讐劇を題材にしているにも関わらず、ブラックダイスという物語には、ある者から他者へと向けられた愛情が必ず、行動の根底に根づいていた。誰かを悪者にして奪い取る感動ではない、皆が救われることで湧きあがる感動がたしかに、その舞台上にあった。

 

少し思い返すだけでも、書きつくせないほどの光景が脳内にありありと蘇る。

では、これらミクロな感想を貫き通す、一本の筋を作りだす『ブラックダイス』全体のテーマとはなんだったのだろうか?

 

わたしの回答はこうだ。
「ブラックダイスとは”演じること”そのものをテーマにした作品だった」

 

咲子は実の父親を騙し、金を奪いとるために、本来の自分とは全くことなる”咲子”という人物を演じていた。
成沢は厳格な経営者たる自分と、娘を溺愛する自分、それぞれを互いに演じながら、自分の本性を隠していた。
芽生はワガママな自分と純粋な自分、そのふたつの演じ分けが自ら制御できず、周囲の人間からの誤解を招いていた。
黒川は計画を遂行するために好青年を演じ、芽生や成沢の懐へと潜り込んだ。

列挙してみるとやはり、彼女らは皆、本来の自分ではない誰かを演じていて、それによって生まれてしまった棘が歯車となって物語を回している。そもそも、メインの舞台となるキャバレーとはまさに「演じること」を商売にしている場所なのだから、このテーマにぴったりではないか。

 

そしてもう一点、「演じること」というテーマに深みを持たせているのが、終盤のカジノシーンだ。
ギャンブルとはつまり、演じる者同士の、演技と演技のぶつけ合いだ。演じきれなくなったものが負け、演じ通したものが勝つ。騙し合いの物語に決着をつけるのにふさわしい場所に違いない。

ところが、この物語の終盤を飾るギャンブルにはイレギュラーが発生する。最後の大勝負を託された咲子は、父親に勝ってほしいという自らの感情に嘘がつけなくなる。つまり、演じることができなくなってしまうのだ。
演じることができなくなった彼女に待っているのは、本来負けのはず。
だが、彼女が手にしたのは大金と権利書、当初の目的であった勝ちを手にする。
…いや、正しくは異なる。過去の自分が描いていた勝利、現在の自分が思い描く敗北を手にしてしまうのだ。

咲子は自らを振り返り、負けっぱなしの人生だと称する。その言葉に違わず、やはりラストのギャンブルは彼女の感じたままの「負け」を意味しているのだろう。
しかし果たして、あの負けに、これまでの彼女の人生へ影を落としていたような悲壮感は漂っていただろうか。答えはNOだ。負けで幕を閉じたはずの物語は、その先、ハッピーエンドへと舵を切っていく。


それはなぜか。

もしや、あのダイスの回転が止まった瞬間、ブラックダイスという作品から「演じ切る=勝ち」の法則が崩れ去ったのではないだろうか?

演じることをやめた咲子は、父親の本当の気持ちを知り、演技の象徴であるキャバレーを立ち去っていく。
経営者という責任から解き放たれた成沢は、ようやく古田に彼の周りで起こっている出来事の全てを話すことができた。
芽生は人によって演じ分けていた表情がひとつになることで、純粋な女の子として皆の前で笑うことができた。
そして、黒川は演じきっていたはずの自分の本当の気持ちに気づきながら、舞台の闇へと消えていく。「お前はまだ戻れる」そう黒川に託す赤木の言葉も、演技ではない本心なのだと、私は信じたい。

演じることをやめた先に待っていたのは、誰もが素直でいられる、原初的な幸せだった。

 

さて、演じることから解放された登場人物たちだが、彼女らの歩みを見ているとあることに気づく。それは「演じること」が、その後の人生における人格形成に繋がっているということだ。

顕著なのはやはり、主人公である咲子だろう。
冒頭での彼女は陰険そのものだった。笑顔は一切見せない、人の思考を全て邪推する、猫背な姿勢。おおよそハッピーエンドを迎えるにふさわしくない姿だ。しかし、彼女は別の自分を演じることで自らを変えていく。笑顔を覚え、人の話をしっかりと聞くようになり、礼を送る姿も様になる。
特に自分自身についてどう考えるかという点は、最初と最後で大きく変わっていた。
最初、彼女は「自分には何もない」と声高に嘆いていたが、キャバレーの客である八代と出会うことで、自分自身の持つ魅力に気づかされる。父親に対する感情が変わったのも、ひとりでは気づけなかった、自分自身の人生で積み上げてきたものに向き合うことができたからだろう。
余談にはなるが、私は八代と咲子の出逢いのシーンがこの舞台で一番印象に残っているほどに大好きだ。八代は物語中では数少ない「演じない強者」だ。慣れ合うことの弱さを嘆き、孤独の強さを説く。演じることを知らない咲子に魅力を見出したのは他でもない彼なのだ。

そしてもうひとり、演じることが成長へと繋がっていたのが成沢だ。
彼は芽生を甘やかしている自分と厳格な自分とを比べて「娘がこの自分の姿を見たら幻滅するだろう」と語っている。彼にとって演者たる自分とは恥ずべき存在なのだ。
だが、物語終盤、咲子に見せた成沢の表情は間違いなく、父親たる自分だった。父親ごっこを続けていたその顔で、彼はもうひとりの娘と向き合うことができたのだ。ここでもやはり、演じていたものがそのまま自分という人格の形成へとつながっている。
また、やはり成沢に対しても「演じること」の鎖から除外された、彼にとっての救世主が存在する。古田だ。彼が自らの信念を貫き通すことができたのは、古田への想いがあってこそで、だからこそ成沢はこんなにも魅力的な人物として描かれていたのだ。

 

ブラックダイスは徹底して「演じること」の魅力と恐怖を伝える舞台だった。
そして観客たる私たちにその根源を伝えてくれたのは、ほかでもない「演じること」を全身全霊でやり遂げた役者たちの努力に違いない。

「役が自分に影響を与えた」や「役者としてターニングポイントになった作品」の話を聞くことがしばしばあるが、なるほどそういうことなのかと納得がいった。物語のキーとしての演じることの重要性は、そのまま、彼女たち役者が舞台上で演じ続ける意味へと重なった。

 

最後に。

完全オリジナル脚本の舞台を見るのは、今回が人生で初めてだった。その記念すべき作品が『ブラックダイス』でよかったと、心の底から感謝している。目の前の舞台から伝わる迫力、空気の振動、瞳に活き活きと映る演者ひとりひとりの表情。どれも忘れられそうにない。「舞台っておもしろいな」と教えてくれたのだ。

興奮冷めやらない私は、また他の作品に足を運び、たくさんの感動体験を得て、そしてまた初期衝動を思い出したくなって、この舞台の余韻に帰ってくるだろう。

「演じること」は舞台上の物語や演じる役者たちだけでなく、観客席にいる我々までもを変えてしまった。

 

演じて得るは幸か不幸か。

その答えはもっとたくさんの演劇に出会ってから考えるとしよう。


flying-trip.info

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色3 -夜明けと夕焼け-

 

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(撮影:逢崎らい/koiwaslie)

●承前

 

koiwaslie.hatenablog.com

 

●序論

Aqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』が4月5日ついに発売された。
当ブログでは視聴版段階でHPTから感じとったことを数回記事にしてきたが、フル音源を聴き、そしてフルPVを観て、視聴版に引き続き感じた景色、そして視聴版では感じることのなかった新たな景色を感じとったので、引き続き文章として記していくこととする。

尚、当記事はいわゆる考察的なものではなく、あくまで個人の主観に基づく、理論根拠に欠ける殴り書きだということをあらかじめご了承いただきたい。
思考と弁舌による屁理屈に付き合う余暇に溢れる獄舎にはぜひ楽しんでいただければい思う。

 

では前置きはさておき本題に移ろう。

今回テーマとするのは、とある部分の歌詞だ。以下にその歌詞を引用する。

 

知りたいのは 素晴らしい夜明けと 切なさを宿す夕焼け

 

2番Aメロのこの歌詞は、視聴版では聴くことのできなかった部分の出だしということもあり、印象深い方も多いと思う。私もそのうちのひとりだ。加えて、私は最初フルを再生し、このフレーズを聴いた瞬間、鳥肌が止まらなくなった。なにがそこまで衝撃的だったのか。その理由についてを以下に記していこう。
つまり今回の記事は、このたった24文字のフレーズだけをひたすら掘り下げていく、非常にミクロな視点による記事である。

 

●景色に対する表現方法の差異

最初に着目したいのが、2つの景色を示す言語表現についてだ。
直感的にわかる通り、このフレーズは「夜明け」と「夕焼け」の2つを並列して表現を行っている。加えて、それぞれに相反的な表現を載せて、結果「夜明け」と「夕焼け」を対比している。
問題となるのは、対比を生み出している表現、つまり「素晴らしい」と「切なさを宿す」という言葉の選び方だ。
まず「夜明け」に対する「素晴らしい」という表現について考えよう。
夜明けとは、始まりの象徴として描かれることの多い情景だ。また「夕焼け」に対する「切なさを宿す」という表現についても、終わりの象徴としての夕焼けの表現として問題はない。
「素晴らしい夜明け」と「切なさを宿す夕焼け」という二つを別々に注目してみると、特に目立った違和感はないように思える。しかし、二つを並列して見比べると、ふとある違和感が生まれるのだ。

 

その違和感とは、夜明けと夕焼けのそれぞれに対する表現技法の差異だ。

「夜明け」に対する「素晴らしい」とは、いわばただの一般論にすぎない。実際の夜明けの風景を見たことがない人間でも、その光景を想像して素晴らしいや綺麗といった感想を抱くのはたやすい。
一方で「夕焼け」に対する「切なさを宿す」は、前述の表現とは性質が明らか異なる。人間的存在ではない夕焼けに対し、切なさを宿すという表現が用いられているということから、ここでは擬人法に注目する必要がある。
擬人法とは一般的に、対象に親近感を覚えているとき用いられる表現である。つまり、このフレーズにおいて夕焼けとは夜明けに比べて、表現者にとってより身近な存在だということだ。
加えて、綺麗や美しいなど一般論で夕焼けを語るのではなく、あえて切ないというマイナスな感情表現を使っているところから、なにか夕焼けに対して特別な感情を抱く人物によって記述された歌詞ではないかと想像できる。

夜明けと夕焼け、2つの表現方法には明らかな差異があるのだ。

 

では、その違和感を踏まえて、私はある仮説を立てた。

もしかして、この表現者は夕焼けを経験したことはあるが、夜明けを経験したことはないのではないか?

 

Aqoursにとっての夜明けと夕焼け

そこで、ふと考えついたのがAqoursと夕焼けの関係性だ。
地図を見ればわかる通り、内浦・沼津地区は伊豆半島の西側に位置している。そして西伊豆からは山々に阻まれて、東から昇ってくる太陽を直接的に見ることができない。
つまり、Aqoursという沼津に住む人間にとって身近な存在なのは、夜明けではなく、圧倒的に夕焼けなのだ。

先述したように、夜明けと夕焼けは始まりと終わりの象徴であると捉えることができる。よって、言い換えるなら、Aqoursにとって身近なのは「始まり」ではなく「終わり」ということになる。

これはラブライブ!サンシャイン!!という作品のテーマ性を踏まえると、より確かな輪郭を得る。廃校や夢を諦めること、田舎が普遍的に孕んでいる閉塞性など、どれもが終わりに繋がるテーマだろう。

またラブライブ!サンシャイン!!においては、執拗と思えるほどに夕焼けが描写されている。アニメ劇中はもちろん、G'sピンナップ等、なにかしら夕焼けに特別な意味を持たせていると考えたくなる。

 

●知りたいの向く先

では、二つの対照的な景色に向けられた「知りたい」という感情は一体どう考えるべきだろうか?

「夜明け」を彼女たちは知らない。だからこそ「素晴らしい」という言葉しか使えない。HPTが旅をテーマとしているのなら、彼女たちはまさに旅先で「夜明け」そのものを知りたいと歌っているのだと私は思う。

「夕焼け」はどうだろう。身近な夕焼けという存在のことを、彼女たちは十分に知っているはずだ。しかし、それを知りたいと歌っている。もしかして、この「知りたい」は「切なさを宿す」の方に係っているのではないか。
夕焼けが終わりを象徴しているというのは、あくまで客観的、つまり物語の外から見ている私たちが抱く考えなだけであって、彼女たちは夕焼けを現象そのものとしか見ることができないはずだ。しかし、その夕焼けを見て、彼女たちは確かに「切なさ」を感じている。
どうして夕焼けが切なさを宿しているのか。その意味・理由を「知りたい」と歌っているのだとしたら、並列された夜明けと夕焼けにはさらに、現象と感情という二つの対比が新たに生まれることとなる。

 

桜内梨子がこの歌詞を歌うという意味

ところで、この歌詞は桜内梨子がソロで歌いあげているパートである。
そこで先に述べた言葉選びの解釈に、さらに桜内梨子という人間の背景を乗せて、もう一歩考えを踏みこませてみよう。
梨子は東京という東から、沼津という西にやってきた。東というのは夜明けのやってくる方角であり、西とは夕焼けが沈んでいく方角である。東京に住んでいた期間と沼津の期間を比べると、彼女にとって身近なのは夕焼けではなく夜明けではないだろうか?
この疑問は梨子の抱える物語に解釈の糸口があると思う。彼女は東京にいたころ、自らの支えであったピアノの道を一度諦めている。しかし沼津にやってくることで、新たな道を見つけ、同時にピアノに向き直ることに成功した。
つまり、彼女は東にいた頃はその夜明け自体を経験したことがなかったのだ。代わりに、西にやってきた彼女は夕焼けを経験することで、切なさ=自らの感情を知りたいと歌えるようになった。
思えば、アニメにおいて彼女が最初に目にしているのは夕焼けであり、そのときの彼女はとても切ない表情をしている。それがPVではピアノと共に清々しい顔で夕焼けを見送っているのだから、成長と呼ぶほかない。

 

●本当に夕焼けは終わりの象徴なのか?

また、少し論点はずれるかもしれないが梨子が歌う意味として注目したい点があるので述べておこう。彼女の経験した東京から沼津への引っ越しとは、ある一種旅であると捉えることができる。引っ越しの際、彼女は当然不安や絶望にさいなまれたことだろう。それこそ、本質的に終わりの象徴としての西の描かれ方だ。
しかし、実際彼女を待ち受けていたのは終わりではなく、むしろ始まりだった。PVでは彼女は夕焼けを嬉しそうに見送っているし、不安を浮かべている様子もない。
つまり歌詞で描かれている内容と違い、彼女にとっては夕焼けこそが始まりの象徴であると見受けることができる。

以前の記事でとり上げたように、HPTのPVは沼津から豊後森、東から西への旅路を表現している一面がある。そして梨子が始まりを見つけた旅路も東京から沼津、東から西へ向いている。

もしかしたら、これからのAqoursにとって、夕焼けとは終わりではなく、始まりの象徴になっていくのかもしれない。
ここまでで長々と語ってきた夜明けと夕焼けの象徴性は、あくまでもこれまでの彼女たちが抱いていた感情であり、「知りたい」と願った先、実際にその存在と意味を知ったとき、彼女たちはまた違った言葉で2つを歌うのだろう。

 

●まとめ、ミクロからマクロへ

しかし、当記事で捉えたのはワンフレーズかつワンシーンという、あくまで徹底的にミクロな視点にすぎない。そして、HPTの描こうとしているテーマは当然、このたった一ヶ所で語ってはいけないものだろう。

そこでいずれ、当記事で得たミクロ的視点をマクロ、つまりPVと曲全体に応用しながら、HPTのテーマ性について考えていければと思う。特に「夕焼け」「旅」という言葉は、作品全体の根底に関わってくると私は考えているため、深く推論していこう。

Aqoursという列車、旅というテーマに乗せて歌われる終わりと始まり、その先になにが待っているのか。この先にどんな景色が待っているのか楽しみでならない。

 

【以前の記事】

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色2 -東と西- 

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち- 

NEXT STEP"旅立つ"ということ 

 

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色2 -東と西-

●承前

koiwaslie.hatenablog.com

 

前回の記事に引き続き、Aqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』(以下HPT)について個人的に感じた景色について記していきたいと思う。

 

今回は、沼津という閉じられたコミュニティの内側の物語だったはずのラブライブサンシャインに突如現れた、完全に外側に分類される存在の違和感と、その解答についての話だ。

 

ラブライブサンシャインというプロジェクトを語るうえで欠かせないのが、やはり聖地と呼ばれる、劇中でモデルになった場所の存在である。地元である現実の沼津での盛り上がりが、アニメ1期終了後の現在までコンスタントに継続しているのは、この要素に起因するところが大きい。地元とファン、相互の関係性こそが作品の根底にあると考えている人間も少なくないだろう。

HPTのPVに新たな聖地を期待した人はもちろん多いだろう。

実際にPV中ではたくさんの聖地が提示された。三島駅出発の伊豆箱根鉄道9番線ホーム。ドールハウスKIMURA様。さらには韮山駅伊豆長岡駅にポツンと存在する、何の変哲のない踏切まで一夜にして聖地と化した。こんな機会がなければ絶対に人も集まらなかった場所が注目されるというのは、まさに聖地という文化の功績に違いない。

 

しかし、サンシャインと聖地という切っても切り離せない関係性のなかで、大きな違和感を覚える風景が生み出された。

それはダンスシーンに映し出される背景だ。

ドラマシーンは風景が映るたびに瞬時に地元に詳しい人間によって特定がなされていった。しかし、ダンスシーンの背景についてだけはタイムラグが生じていたように思う。

特徴的に湾曲した建物。どこか廃墟を思わせる雰囲気。線路とSL。特徴的な材料は揃っているにも関わらず、沼津・伊豆界隈では聖地と認定できる場所がなかった。

 

それはなぜなのか。答えは単純。ダンスシーンの背景の元ネタとなったのは沼津が一切関係ない場所だったから。

場所は豊後森機関庫。なんと大分県だ。

 

ここで、当然の疑問が浮かぶ。

なぜ聖地として大分県豊後森を選択したのか?

サンシャインにおいて、物語の延長線上として描かれた東京や名古屋を除いて、関係のない地が聖地となることはなかった。そして先述したように、サンシャインは聖地という文化を効果的に使って発展してきた。突拍子もない場所を聖地にするということには当然リスクがある。これまでに完成された人の流れを壊す可能性もあるし、そもそも流れそのものが生まれない可能性もある。

 

そこで考えるヒントとなるのが、HPTがそもそも”旅”をテーマにした作品だということだ。

Aqoursにおいて旅といえば、誰もが思い出すのがアニメ劇中での東京への旅だろう。この旅は間違いなく、彼女たちに新たな景色を与えた。旅をテーマとするなら、そしてNEXT STEPを歌うなら、偉大なる先人たちへと近づく一歩、つまり"東”へと旅に出るというのが自然な物語だと思える。

しかし、Aqoursは”東”へと向かわなかった。自分たちの新たな舞台を象徴する場所として大分、つまり東とは真逆の”西”を選んだ。

これは明確な意思表示に違いない。μ'sの背中を追うのではなく、むしろ敢えて背中を向けるような、不敵で偉大なる挑戦への旅路なのだと。まさにアニメ劇中で千歌が語った「追いかけちゃだけなんだよ。輝くって自由に走ることなんだよ」を、今度は言葉ではなく行動で示しているのだ。

つまり、Aqoursがμ'sとは全く別の物語であるという主張だ。

 

しかし一方で、この沼津・東京・大分という3地点の位置関係は同時に、上記で語った意味合いとは全く逆の意味をも含んでいると私は考える。いきなり自己の主張を曲げるようで心苦しいが少しこじつけに付き合っていただきたい。

μ'sの始まりの地”東京”から見て、Aqoursの始まりの地”沼津”は南西方向にある。そして沼津から見て、Aqoursの旅路の先である"大分”はやはり南西方向に位置している。輝きが南西方向へと波及していると捉えると、やはりAqoursはμ'sが追い求めた物語の延長線上にいるのだ。

”西”という方向が輝きの向かう場所のメタファなのではないか、という理由はもう一つある。μ’sAqoursはそれぞれアニメ劇中で国府津海岸から夕焼けを見て、自らの進む方向の決意表明をしている。夕日が落ちていく方向はまさに”西”だ。彼女たちが前に進むとき、その身体は西を向いている。

 

ところで、ダンスシーンの舞台となった豊後森機関庫は転車台の展示でも有名だ。転車台とは端的に言えば、真っ直ぐにしか走れない蒸気機関車の走る方向を変えるための装置である。NEXT STEPが発表されて、これまでとは違う方向へと走り出したAqoursの舞台装置としてはピッタリだし、たどり着いた先でまた方向を変え違う景色を目指す彼女たちをどこか期待してしまう。

結びに、豊後森機関庫には国鉄9600形蒸気機関車29612号機というSLが展示されているのだが、彼のたどった運命が少しおもしろい。というのも、彼は当初解体予定の車両だった。しかし、豊後森に移転され展示された結果、まさにこの場所のシンボルとなり、いわばアイドルと呼べる存在になった。

 

本来なくなるはずだった存在が人を集めてセンセーションを起こす。

……奇妙なシンパシーを感じてしまうのは多分、私だけじゃないはずだ。