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こいわずらい

現実と空想の狭間に視える景色

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色3 -夜明けと夕焼け-

Aqours HAPPY PARTY TRAIN

 

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(撮影:逢崎らい/koiwaslie)

 ●序論

Aqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』が4月5日ついに発売された。
当ブログでは視聴版段階でHPTから感じとったことを数回記事にしてきたが、フル音源を聴き、そしてフルPVを観て、視聴版に引き続き感じた景色、そして視聴版では感じることのなかった新たな景色を感じとったので、引き続き文章として記していくこととする。

尚、当記事はいわゆる考察的なものではなく、あくまで個人の主観に基づく、理論根拠に欠ける殴り書きだということをあらかじめご了承いただきたい。
思考と弁舌による屁理屈に付き合う余暇に溢れる獄舎にはぜひ楽しんでいただければい思う。

では前置きはさておき本題に移ろう。

今回テーマとするのは、とある部分の歌詞だ。以下にその歌詞を引用する。

「知りたいのは 素晴らしい夜明けと 切なさを宿す夕焼け」

2番Aメロのこの歌詞は、視聴版では聴くことのできなかった部分の出だしということもあり、印象深い方も多いと思う。私もそのうちのひとりだ。加えて、私は最初フルを再生し、このフレーズを聴いた瞬間、鳥肌が止まらなくなった。
なにがそこまで衝撃的だったのか。その理由についてを以下に記していこう。
つまり今回の記事はこのたった24文字のフレーズだけをひたすら掘り下げていく内容の非常にミクロな視点による記事である。

●景色に対する表現方法の差異

最初に着目したいのが、2つの景色を示す言語表現についてだ。
直感的にわかる通り、このフレーズは「夜明け」と「夕焼け」の2つを並列して表現を行っている。加えて、それぞれに相反的な表現を載せて、結果「夜明け」と「夕焼け」を対比している。
問題となるのは、対比を生み出している表現、つまり「素晴らしい」と「切なさを宿す」という言葉の選び方だ。
まず「夜明け」に対する「素晴らしい」という表現について考えよう。
夜明けとは、始まりの象徴として描かれることの多い情景だ。また「夕焼け」に対する「切なさを宿す」という表現についても、終わりの象徴としての夕焼けの表現として問題はない。
「素晴らしい夜明け」と「切なさを宿す夕焼け」という二つを別々に注目してみると、特に目立った違和感はないように思える。しかし、二つを並列して見比べると、ふとある違和感が生まれるのだ。

その違和感とは、夜明けと夕焼けのそれぞれに対する表現技法の差異だ。

「夜明け」に対する「素晴らしい」とは、いわばただの一般論にすぎない。実際の夜明けの風景を見たことがない人間でも、その光景を想像して素晴らしいや綺麗といった感想を抱くのはたやすい。
一方で「夕焼け」に対する「切なさを宿す」は、前述の表現とは性質が明らか異なる。人間的存在ではない夕焼けに対し、切なさを宿すという表現が用いられているということから、ここでは擬人法に注目する必要がある。
擬人法とは一般的に、対象に親近感を覚えているとき用いられる表現である。つまり、このフレーズにおいて夕焼けとは夜明けに比べて、表現者にとってより身近な存在だということだ。
加えて、綺麗や美しいなど一般論で夕焼けを語るのではなく、あえて切ないというマイナスな感情表現を使っているところから、なにか夕焼けに対して特別な感情を抱く人物によって記述された歌詞ではないかと想像できる。

夜明けと夕焼け、2つの表現方法には明らかな差異があるのだ。

では、その違和感を踏まえて、私はある仮説を立てた。

もしかして、この表現者は夕焼けを経験したことはあるが、夜明けを経験したことはないのではないか?

Aqoursにとっての夜明けと夕焼け

そこで、ふと考えついたのがAqoursと夕焼けの関係性だ。
地図を見ればわかる通り、内浦・沼津地区は伊豆半島の西側に位置している。そして西伊豆からは山々に阻まれて、東から昇ってくる太陽を直接的に見ることができない。
つまり、Aqoursという沼津に住む人間にとって身近な存在なのは、夜明けではなく、圧倒的に夕焼けなのだ。

先述したように、夜明けと夕焼けは始まりと終わりの象徴であると捉えることができる。よって、言い換えるなら、Aqoursにとって身近なのは「始まり」ではなく「終わり」ということになる。
これはラブライブ!サンシャイン!!という作品のテーマ性を踏まえると、より確かな推測となるだろう。廃校や夢を諦めること、田舎が普遍的に孕んでいる閉塞性など、どれもが終わりに繋がるテーマだろう。

またラブライブ!サンシャイン!!においては、執拗と思えるほどに夕焼けが描写されている。アニメ劇中はもちろん、G'sピンナップ等、なにかしら夕焼けに特別な意味を持たせていると考えたくなる。

●知りたいの向く先

では、二つの対照的な景色に向けられた「知りたい」という感情は一体どう考えるべきだろうか?

「夜明け」を彼女たちは知らない。だからこそ「素晴らしい」という言葉しか使えない。HPTが旅をテーマとしているのなら、彼女たちはまさに旅先で「夜明け」そのものを知りたいと歌っているのだと私は思う。

「夕焼け」はどうだろう。身近な夕焼けという存在のことを、彼女たちは十分に知っているはずだ。しかし、それを知りたいと歌っている。もしかして、この「知りたい」は「切なさを宿す」の方に係っているのではないか。
夕焼けが終わりを象徴しているというのは、あくまで客観的、つまり物語の外から見ている私たちが抱く考えなだけであって、彼女たちは夕焼けを現象そのものとしか見ることができないはずだ。しかし、その夕焼けを見て、彼女たちは確かに「切なさ」を感じている。
どうして夕焼けが切なさを宿しているのか。その意味・理由を「知りたい」と歌っているのだとしたら、並列された夜明けと夕焼けにはさらに、現象と感情という二つの対比が新たに生まれることとなる。

桜内梨子がこの歌詞を歌うという意味

ところで、この歌詞は桜内梨子がソロで歌いあげているパートである。
そこで先に述べた言葉選びの解釈に、さらに桜内梨子という人間の背景を乗せて、もう一歩考えを踏みこませてみよう。
梨子は東京という東から、沼津という西にやってきた。東というのは夜明けのやってくる方角であり、西とは夕焼けが沈んでいく方角である。東京に住んでいた期間と沼津の期間を比べると、彼女にとって身近なのは夕焼けではなく夜明けではないだろうか?
この疑問は梨子の抱える物語に解釈の糸口があると思う。彼女は東京にいたころ、自らの支えであったピアノの道を一度諦めている。しかし沼津にやってくることで、新たな道を見つけ、同時にピアノに向き直ることに成功した。
つまり、彼女は東にいた頃はその夜明け自体を経験したことがなかったのだ。代わりに、西にやってきた彼女は夕焼けを経験することで、切なさ=自らの感情を知りたいと歌えるようになった。
思えば、アニメにおいて彼女が最初に目にしているのは夕焼けであり、そのときの彼女はとても切ない表情をしている。それがPVではピアノと共に清々しい顔で夕焼けを見送っているのだから、成長と呼ぶほかない。

●本当に夕焼けは終わりの象徴なのか?

また、少し論点はずれるかもしれないが梨子が歌う意味として注目したい点があるので述べておこう。彼女の経験した東京から沼津への引っ越しとは、ある一種旅であると捉えることができる。引っ越しの際、彼女は当然不安や絶望にさいなまれたことだろう。それこそ、本質的に終わりの象徴としての西の描かれ方だ。
しかし、実際彼女を待ち受けていたのは終わりではなく、むしろ始まりだった。PVでは彼女は夕焼けを嬉しそうに見送っているし、不安を浮かべている様子もない。
つまり歌詞で描かれている内容と違い、彼女にとっては夕焼けこそが始まりの象徴であると見受けることができる。

そして以前の記事でとり上げたように、HPTのPVは沼津から豊後森、東から西への旅路を表現している一面がある。そして梨子が始まりを見つけた旅路も東京から沼津、東から西へ向いている。

もしかしたら、これからのAqoursにとって、夕焼けとは終わりではなく、始まりの象徴になっていくのかもしれない。
ここまでで長々と語ってきた夜明けと夕焼けの象徴性は、あくまでもこれまでの彼女たちが抱いていた感情であり、「知りたい」と願った先、実際にその存在と意味を知ったとき、彼女たちはまた違った言葉で2つを歌うのだろう。

●まとめ、ミクロからマクロへ

しかし、当記事で捉えたのはワンフレーズかつワンシーンという、あくまで徹底的にミクロな視点にすぎない。そして、HPTの描こうとしているテーマは当然、このたった一ヶ所で語ってはいけないものだろう。

そこで次回以降、当記事で得たミクロ的視点をマクロ、つまりPVと曲全体に応用しながら、HPTのテーマ性について考えていきたいと私は思う。特に「夕焼け」「旅」という言葉は、作品全体の根底に関わってくると私は考えているため、深く推論していこう。

Aqoursという列車、旅というテーマに乗せて歌われる終わりと始まりの景色、その先になにが待っているのか、もうしばらく読者には、思考と弁舌の旅に付き合ってもらいたい。

(逢崎らい / koiwaslie)

 

【以前の記事】

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色2 -東と西- 

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち- 

NEXT STEP"旅立つ"ということ 

 

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色2 -東と西-

HAPPY PARTY TRAIN Aqours

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前回の記事(HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち-)に引き続き、Aqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』(以下HPT)について個人的に感じた景色について記していきたいと思う。

今回は、沼津という閉じられたコミュニティの内側の物語だったはずのラブライブサンシャインに突如現れた、完全に外側に分類される存在の違和感と、その解答についてのお話。

ラブライブサンシャインというプロジェクトを語るうえで欠かせないのが、やはり聖地と呼ばれる、劇中でモデルになった場所の存在である。地元である現実の沼津での盛り上がりが、アニメ1期終了後の現在までコンスタントに継続しているのは、この要素に起因するところが大きい。地元とファン、相互の関係性こそが作品の根底にあると考えている人間も少なくないだろう。

HPTのPVに新たな聖地を期待した人はもちろん多いだろう。

実際にPV中ではたくさんの聖地が提示された。三島駅出発の伊豆箱根鉄道9番線ホーム。ドールハウスKIMURA様。さらには韮山駅伊豆長岡駅にポツンと存在する、何の変哲のない踏切まで一夜にして聖地と化した。こんな機会がなければ絶対に人も集まらなかった場所が注目されるというのは、まさに聖地という文化の功績に違いない。

しかし、サンシャインと聖地という切っても切り離せない関係性のなかで、大きな違和感を覚える風景が生み出された。

それはダンスシーンに映し出される背景だ。

ドラマシーンは風景が映るたびに瞬時に地元に詳しい人間によって特定がなされていった。しかし、ダンスシーンの背景についてだけはタイムラグが生じていたように思う。

特徴的に湾曲した建物。どこか廃墟を思わせる雰囲気。線路とSL。特徴的な材料は揃っているにも関わらず、沼津・伊豆界隈では聖地と認定できる場所がなかった。

それはなぜなのか。答えは単純。ダンスシーンの背景の元ネタとなったのは沼津が一切関係ない場所だったから。

場所は豊後森機関庫。なんと大分県だ。

ここで、当然の疑問が浮かぶ。

なぜ聖地として大分県豊後森を選択したのか?

サンシャインにおいて、物語の延長線上として描かれた東京や名古屋を除いて、関係のない地が聖地となることはなかった。そして先述したように、サンシャインは聖地という文化を効果的に使って発展してきた。突拍子もない場所を聖地にするということには当然リスクがある。これまでに完成された人の流れを壊す可能性もあるし、そもそも流れそのものが生まれない可能性もある。

そこで考えるヒントとなるのが、HPTがそもそも”旅”をテーマにした作品だということだ。

Aqoursにおいて旅といえば、誰もが思い出すのがアニメ劇中での東京への旅だろう。この旅は間違いなく、彼女たちに新たな景色を与えた。旅をテーマとするなら、そしてNEXT STEPを歌うなら、偉大なる先人たちへと近づく一歩、つまり"東”へと旅に出るというのが自然な物語だと思える。

しかし、Aqoursは”東”へと向かわなかった。自分たちの新たな舞台を象徴する場所として大分、つまり東とは真逆の”西”を選んだ。

これは明確な意思表示に違いない。μ'sの背中を追うのではなく、むしろ敢えて背中を向けるような、不敵で偉大なる挑戦への旅路なのだと。まさにアニメ劇中で千歌が語った「追いかけちゃだけなんだよ。輝くって自由に走ることなんだよ」を、今度は言葉ではなく行動で示しているのだ。

つまり、Aqoursがμ'sとは全く別の物語であるという主張だ。

しかし一方で、この沼津・東京・大分という3地点の位置関係は同時に、上記で語った意味合いとは全く逆の意味をも含んでいると私は考える。いきなり自己の主張を曲げるようで心苦しいが少しこじつけに付き合っていただきたい。

μ'sの始まりの地”東京”から見て、Aqoursの始まりの地”沼津”は南西方向にある。そして沼津から見て、Aqoursの旅路の先である"大分”はやはり南西方向に位置している。輝きが南西方向へと波及していると捉えると、やはりAqoursはμ'sが追い求めた物語の延長線上にいるのだ。

”西”という方向が輝きの向かう場所のメタファなのではないか、という理由はもう一つある。μ’sAqoursはそれぞれアニメ劇中で国府津海岸から夕焼けを見て、自らの進む方向の決意表明をしている。夕日が落ちていく方向はまさに”西”だ。彼女たちが前に進むとき、その身体は西を向いている。

ところで、ダンスシーンの舞台となった豊後森機関庫は転車台の展示でも有名だ。転車台とは端的に言えば、真っ直ぐにしか走れない蒸気機関車の走る方向を変えるための装置である。NEXT STEPが発表されて、これまでとは違う方向へと走り出したAqoursの舞台装置としてはピッタリだし、たどり着いた先でまた方向を変え違う景色を目指す彼女たちをどこか期待してしまう。

結びに、豊後森機関庫には国鉄9600形蒸気機関車29612号機というSLが展示されているのだが、彼のたどった運命が少しおもしろい。というのも、彼は当初解体予定の車両だった。しかし、豊後森に移転され展示された結果、まさにこの場所のシンボルとなり、いわばアイドルと呼べる存在になった。

本来なくなるはずだった存在が人を集めてセンセーションを起こす。

……奇妙なシンパシーのせいでまた旅が恋しくなってしまう。

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち-

Aqours HAPPY PARTY TRAIN 沼津

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(撮影:キタモリテツヒト / @sazanamiPS / さざなみ写眞館)

www.youtube.com

記念すべきAqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』(以下HPT)が私にとって衝撃的な内容であったことは、前回の記事「NEXT STEP"旅立つ"ということ」にて綴った。その感情を、そしてそこから視えた景色を正確に言葉として記録しておきたく、改めて記事を書くことにした。もしかしたら数回に分けて言及するかもしれないし、この記事ただ1回だけにとどめるかもしれない。ただ、CDが発売されるまでの、わずか1ヶ月という短い期間に覚えた感情を大切にしておきたい、そういう文章だ。

HPTはタイトル通り電車をモチーフにした楽曲だ。
ではなぜ電車をモチーフにする必要があったのか、そしてそこに秘められた意味とは何か。
電車によって描かれた、彼女たちの旅立ちについて考えてみたいと思う。

HPTのPVは松浦果南がどこかへ旅立つシーンから始まる。その表情はどこか物憂げで、正体の知れない不安感を私たちの胸に満たしてくる。タイトルの時点で陽気なアッパーチューンを期待していただけになおさらだろう。

Aqoursの物語において、旅とはどんな存在であったかを振り返ってみよう。
彼女たちにとって旅立ちが不安として描かれたことは少なかった。μ'sという存在との出会いはまさに旅先の秋葉原でのことだった。引っ越しという旅を経験している梨子は、その移動自体の不安を口にはしていなかった。アニメ劇中で果南が鞠莉を送り出したのも、自分たちから離れた旅立ちの先に新たな希望があると信じての行動だ。

彼女たちの一歩は常に希望・喜びへと繋がっていた。行動した先には常に輝きが待っているのだ。

どうして、彼女たちにとって、旅立ち=希望という構図が成り立っていたのか。
それはこれまでの彼女たちの旅は、あくまで決められた範囲内、つまり境界の内側での出来事に過ぎないからだと私は考える。
アニメ最終話の東海地区予選も、結局は沼津から応援に駆け付けた人間たちによって作りだされた盛り上がりであった以上、彼女たちはアニメ1期終了時点では沼津の内側からまだ旅立てていない。もう少し言及するならば「MIRAI TICKET」という楽曲自体、船出を歌ってはいるが、その進行方向は現在→未来という時間的なものであって、場所的・空間的な移動ではなかった。
梨子の引っ越しについては、少し特殊ではあるが、あらかじめ他者によって作られた移動であることから、彼女にとっての内側そのものが強制的に移動させられてしまっているのだろうと理解する。
彼女たちはまだ内側から外側へと旅立てていない。
動かせているのは内側だけであって、外側を動かす域にまではたどり着けていない。

一方でHPTはどうだろうか。
AメロBメロを歌唱するのは、果南・善子・花丸の投票トップ3。それ以外のメンバーはコーラス以外で歌唱しない。さらにPVにおいても、ドラマシーンでは歌唱する3人以外は一切登場しないという徹底っぷりだ。
地元や仲良しといった内側を想像させるモチーフは一切含まれていない。
ただただ、電車と不安が結びつけられる。

彼女たちにとって電車の持つ意味とはなんだろう?
その理解のために、まずバスと電車の比較から始めたいと思う。
田舎に住む人間にとって、一番身近な公共交通機関はバスだ。「君のこころは輝いてるかい」やアニメ劇中での会話シーン、さらには現実のコラボにおいても、サンシャインの物語でバスは有効活用されてきた。
バスの欠点は遠くに移動するのに適していないというところだ。作中で彼女たちの日常の乗り物は沼津という街の内側でしか動くことができていない。
バスとは旅立ちを描くのにはあまりにも力不足なのだ。

一方で電車は田舎の人間にとって特別な乗り物だ。ドラマでも映画でもアニメでも何でもいい。田舎の人間が都会へと旅立つシーンを思い浮かべたとき、あなたの頭の中には電車が思い浮かんだに違いない。
「恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう列車で」そんなマスターピースがあるほどに電車での移動は普遍的に人々の心へと特別な意味をもたらす。
またアニメ劇中においても、電車での移動は彼女たちにとって特別だった。1回目の旅は6話7話で東京を訪れて自らが井の中の蛙だということを思い知らしめ、2回目の旅は12話でこれから先自分たちが歩むべき道、まさに路線が提示された。少々脱線してしまうが、1話で千歌と曜が修学旅行で東京を訪れた際、彼女たちは東京都という内側を移動する手段として電車を使ったことになる。電車を使って移動した先で出会ったのが彼女たちの今後を決めるμ'sだったというのは興味深い。

電車とはまさに新たな旅立ちのモチーフとして彼女たちの瞳に映る。
それは「内側から内側」の旅とは異なる「内側から外側」への旅立ち。
Aqoursというグループが執拗に「0から1へ」を主張することに、違和感をもっていた人間は少なからずいると思う。なぜならアニメ劇中では地元に愛され予選を突破するだけの実力を持ったアイドル、そして現実ではμ'sという大先輩をもつ成功がほぼ約束されたアイドル。0という言葉がただの卑下にしか聞こえないというのも、あながち間違いではないだろう。
しかし改めて考え直してみると、0とはつまり、1に満たないという意味にも捉えることができる。
言い換えるとこうだ。「0から1」とは「1という内側と外側を隔てる境界線。その内側を充足させること」
0から1を完了した彼女たちが次に目指すのはNEXT STEP。これについて興味深いのは「0から1」と異なり、1からの先が記されていない点だ。1から先は2かもしれない、10かも、100かも、いやさらに巨大な数字かもしれない。
数字を記さなかったことにどんな意味があるのか。それは「内側を作らない」ということだ。これから行う活動は、常に外側へと向き続けていないといけないという、彼女たちの強い意志の表れなのだ。

NEXT STEP=新たなる旅立ち、新たなる挑戦。
内側から、そして外側から、彼女たちが視せてくれる新たな景色がこれから楽しみで仕方ない。

 

NEXT STEP"旅立つ"ということ

Aqours

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2017年3月3日に放送されたAqours浦の星女学院生放送にて、4月5日リリースの新曲『HAPPY PATTY TRAIN』の視聴動画がついに公開された。

明るく勝気な果南がセンター、さらにタイトルが推してくる楽しげな雰囲気。おそらく誰もが、ライブで盛り上がる系のアッパーチューンを予想していただろう。

しかし、公開されたのは、私たちの全く予想だにしていなかった一曲だった。
ピアノイントロの切なさ。物憂げな果南の表情。秋めいた景色。廃墟めいた雰囲気を漂わせる豊後森。それぞれのソロ歌唱のみで構成されたAメロBメロ。ドラマシーンに至っては他のメンバーとの交流すら一切描かれていない。
HAPPY PARTY TRAINは寂しさを演出することに全てを尽くしていた。

そして忘れてはいけない事実がひとつ。
この曲はAqoursのNext STEP projectの記念するべき第一曲目だということ。

なぜ、このような曲が、彼女たちの晴れの舞台、1から先への道のりに示されたのだろうか。
そんな疑問について考えたとき、ふとあるひとつの解答を思いついた。
"NEXT STEP"つまり旅立つということは、希望であると同時に、郷愁の象徴でもある。
旅立つということは自らの居場所を離れるということ。
彼女たちにとっての1歩目の先とは、沼津から日本、そして世界へと踏み出していくこと。自分たちも相手も、互いに互いのことを知らない外へと飛び出すことが旅立つということだ。
思えば、Aqoursの曲というのは内側について歌っているものがほとんどだった。「夢で夜空を照らしたい」はまさにその最たる例であった。Aqoursというアイドルは自分たちのことを歌うことによって、間接的に外へと影響を与えていたが、実質は内へ内へと歌い続けていたと考えられる。
けれど、内側に向かっているだけではいつか限界にたどり着いてしまう。他者に自分のことを伝えるには、自分を他者にとっての知らない存在、ストレンジャーにする必要があるのだ。

0から1への一歩という言葉も、もしかしたら内側と外側を表しているのかもしれない。
0から1へ向かう途中とは、内側で歩き続けること。
1から次のステップとは外側への、知らない世界への一歩。

NEXT STEP PROJECTの先に待っている外の世界。
『HAPPY PARTY TRAIN』は明確に外へ向かって歩み始めた曲だ。

Aqoursはこれから旅に出る。
彼女たちは自らを誰かにとってのストレンジャーに敢えて落としこもうとしている。
それは内側だけで済んでいたこれまでとは全く違う、厳しい世界に挑戦すること。
「はじまりとさよならを繰り返して」
彼女たちは確かな一歩をどこまでも歩み続けていく。

次の富士山もよろしく

 

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これは街と人と景色の共存する世界のお話。 

沼津・内浦地区に来訪する際、私はいつも予定を立てずに行動をしている。
それは、目的を持たずになんとなく訪れても、沼津という街は十分におもしろく心地よい場所だという確信があるからだ。見知った光景でも、季節、時間や天気が違うとがらりと表情が変わるということをこの街は教えてくれた。予定のない旅というのは、その日その瞬間ベストコンディションの場所に心置きなく向かうことができるので、その恩恵に強くあずかっているのかもしれない。
しかし、予定のない旅には欠点もある。それは同行者を募りにくいということだ。

聖地巡礼とはやはり、聖地たる特定のスポットに赴くことが第一の目的となるため、散策という行為とはまだ仲が悪い。特にラブライブサンシャインは毎月のように、アニメ放送中に至っては毎週新たな聖地が誕生してしまうので、それらを廻るだけで手一杯となってしまうのは必然だろう。

という理由もあり、私というストレンジャーが沼津を訪れる際はたいていひとり、多くともふたりの、聖地巡礼とはとても呼べない気ままな街歩きに落ち着くことが多い。

そんな旅ばかりしていると、ふとあることに気づいた。
歩いていると妙に地元の方に声をかけられるのだ。
その理由はなんとなくわかる。あまり観光客のいない場所を、視線をうろうろさせながら歩いている見知らぬ人間いたら、そりゃ誰だって怪しがって声をかけるに違いない。そんなネガティブな理由は差し置いておくにしても、複数人で既に会話を楽しみながら歩いている観光客に比べて、ひとりで歩いている人間にはやはり声をかけやすいのだろう。
見知らぬ人とすれ違いざまに挨拶を交わして、立ち止まって、気づけば立ち話が小一時間。そんな経験をしたのはこの街が初めてだ。

地元の方々と話していると開口一番必ずかけられる言葉がある。
ラブライブの人かい?」
そう呼ばれると、こちらとしてはなんとも言えない気恥ずかしさがあるが、その通りなのだから仕方ない。
「ええ、まぁそんなところです」
そんな風にぼんやりとした言葉と申し訳ないような笑みで返すと、決まって地元の方は純粋な満面の笑みで答えてくれる。

そういえば、少し話は逸れるが、先日、ツイッターでこんなツイートを見かけた。
「沼津に行くと特にアピールもしてないのにラブライバーだとバレてしまう。やっぱりオタクって一目見たらすぐにわかるんだな」
この発言には正しい部分もあるが、一方で少し間違っている部分もあると私は考える。
そもそも西伊豆の海岸地区という観光地は夏が最盛期であり、空~冬にかけてはオフシーズンになりがちなのだ。加えて、もともとの観光客はダイバーもしくはバスツアーが中心であり、それ以外の姿というのは比較的少なかった。
そんな場所に突然降って湧いてきたのが“ラブライブ!サンシャイン!!”という観光資源である。結果、これまで観光客の立ち寄らなかったような場所に次々と人が押し掛けるようになった。
つまり、長年その街を見続けてきた人間にとっては「見慣れないタイプの観光客がいる=その人はラブライバー」ということは容易に想定できるのだ。考えている以上に、田舎街というのは異質な存在に敏感だ。

閑話休題
さて、そんな地元との偶然の交流も毎回楽しみにしている旅の要素なのだが、先日ある印象的な会話に遭遇した。
日付は2017年2月26日、ちょうどAqours1stライブ2日目が開催されていた、いつもよりラブライバーの少ない内浦でのことだ。
その日もまた聖地でもなんでもない海を眺めていたところ、背後から「こんにちは」と声をかけられた。振り向いてみると老年の女性がにこにこと笑みを見せていた。恰好から察するに日課の散歩の途中といったところだろうか。
ラブライバーの人たちかい?」
「まぁ、そんなところです」
とてもじゃないが現代のアニメに関わりの一切なさそうな老女の口から、ラブライバーという言葉が飛び出してきたことは、まずひとつ驚きだった。お決まりの問いかけに、お決まりのふわふわとした笑みで返す。すると彼女は私の隣に並び、海を見やって話し始めた。
「あらー、今日は富士山が見えなくて残念だねぇ」
言葉につられて彼女の視線を追う。たしかに大きな雲に隠れて富士山はすっかり隠れてしまっていた。
「あー、さっきまでは頭だけ見えてたんですけれど、隠れちゃいましたね」
「天気のいい日はここから綺麗に富士山が見えるんだよ。ちょうどこの前なんかはね……」
そう言うと、老女はポケットに手を伸ばし、携帯を取り出した。慣れない手つきでスマートフォンの写真フォルダをスクロールさせる。流れるのは家族の写真とこの街の真っ青な風景の写真ばかりだ
「そうそう、これこれ」
老女がスマホを差し出す。画面には真っ青な海の上に雄大にそびえる富士山の姿が切りきられていた。
「この日はすごく綺麗だったんだよ」
顔のしわを深くして彼女は話す。まるで息子の自慢話をしているような、そんな調子だった。
「けれど本当に残念だね。あったかくなってくると霞んできて、今みたいに綺麗には見えなくなるからねぇ」
どこか申し訳なさそうな彼女に、私は何気なく答える。
「大丈夫ですよ。どうせ来年の冬も来ることになると思いますし、春も夏もいっつも来てますからね。多分、最近来てる人たちはみんなそうですよ」
すると、その言葉に彼女の顔はパッと明るくなった。
「そうかい。じゃあ、次に来たときの楽しみにしておいてちょうだい!」

どうして老女がそんなにも再訪の約束を喜んだのか。
観光シーズンの夏は富士山が見えづらい。オフシーズンの冬の富士山は人が来ないのでなかなか目にしてもらえない。ラブライブ!サンシャイン!!で街が湧き立っている今は、彼女にとって家族同然の富士山を披露する千載一遇の機会なのだ。
そういう意味で、このプロジェクトは人と街に希望をくれた。
自分たちの当たり前を自慢することは何より楽しく、そして生きがいに違いない。

別れ際、老女はこんな言葉を送ってくれた。
「次の富士山もよろしくね」

その街では確かに、人と景色が共に生活を送っていた。

想いよひとつになれ 1日目

1st Live

2017年2月25・26日に開催されたAqoursの最初の一歩となるライブ。
ラブライブ!サンシャイン!! Aqours First LoveLive! ~Step! ZERO to ONE~』
本記事はライブビューイングで参加した筆者の瞳に、ライブを通じて視えた光景を共有したくて記したものです。ライブレポートとはとても呼べない、もはや薄れかけている記憶を頼りにした、現実と虚構の入り混じった文章ですが、どうかお付き合いください。


今回は、ライブ1日目に披露された『想いよひとつになれ』のお話。


未熟Dreamer』の興奮冷めやらないままに暗転した会場。
照明が息を吹き返しライトアップされたのは、壇上に用意されたグランドピアノ。光沢のあるその姿が光を反射したとき、ドクンと心臓が鳴った。見守っていた誰もがその意味を理解したのだろう。響いていた歓声はざわめきへと塗りつぶされていき、私もその中に飲みこまれた。


最初は冗談だろうと思った。梨香子をダンスステージからはけさせるための装置なんだろうと。いいわゆる弾き真似をするだけの演出にすぎないのだろうと。
その考えは、憶測というより希望だったのかもしれない。もしそれが実現してしまったら、ラブライブという作品において私が引いていた一本の境界線が弾けて消えてしまうような、そんな予感がしたのだ。


ピアノの次に目に入ったもの。
ひとりメンバーから離れて険しい表情を見せる梨香子の姿。
瞬間、彼女は本気なんだと、そう感じることしかできなくなった。
今からこのステージの上では、アニメというフィクションを現実にする禁忌が実行されるのだと。ある一種の恐怖に震えが止まらなくなった。


梨香子がダンスステージの方を見やる。本来演者がフロアに背中を見せるのはタブーだというのに、杏樹と朱夏は真っ直ぐに梨香子のいる壇上を見上げていた。わずかに映る横顔から、ふたりの顔が笑顔だということはわかった。カメラに切り取られた光景は、大きく映る杏樹と朱夏、ふたりの背中と、それとは対照的に遠く小さい梨香子の強張った表情だった。
曲が始まるまでの時間がひどく長く感じたのは覚えている。鍵盤を映すために用意されたカメラには終始、固く結ばれた口元と震える指先が捉えられていた。その姿はまさに悲痛と呼ぶに違いないものに見えた。


そして、ステージが始まる。
想いよひとつになれ
その曲の始まりは驚くほどにシンプルだ。杏樹の透き通るような歌声。それに少し遅れて、導かれるようにして鳴り響く、ピアノの伴奏。少しの揺らぎをも簡単に露呈してしまう、余計なものが一切省かれたフレーズだ。
音からは彼女の緊張がまざまざと伝わってきた。固すぎるくらいに丁寧な演奏は、一歩たりとも五線譜の道を踏み外さないようにという決意の表れだったのかもしれない。


杏樹が歌っている間、梨香子は間違えずに弾ききった。
そして、導いていた歌声が止むと、彼女のピアノはひとりで歩きださないといけなくなる。ピアノの音がひとつひとつ紡がれると、辿るように他のメンバーのダンスが始まる。鍵盤を叩く振りつけはまるで、ひとりで壇上に登った梨香子の指をみんながなぞり、背中を押しているようだった。


ソロの最後。押さえつけられた鍵盤の余韻だけが残る。誰もが息を飲む緊張。
瞬間、彼女の披露した力強グリッサンドは、解放感に満ち溢れた最高の音色だった。
それを合図に8人のメンバー、静かに見守っていた会場全体が一斉に生き生きと腕を振り上げた。誰もがみんな、湧きあがる達成感に衝動が抑えられなくなったに違いない。
そして、それはピアノに向き合い続けていた梨香子も同じだったのだろう。演奏中、彼女は終始緊張した表情のままだったが、奏でる音色は確かにステージの上で9人として躍っていた。


私は曲の終盤に見た光景が忘れられない。
バックスクリーンに映る8人の姿が梨香子の演奏するピアノの天板に反射していた光景が。
それはまさに、想いがひとつになり、ひとつのステージを作り上げた瞬間だった。


想いよひとつになれ。このときを待っていた
ただのひとりの観客に過ぎない私でも、彼女たちにそんな喝采を送りたくなってしまった。

 

逢崎らい / @aisakiLie

9人のいない街

沼津

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2017年2月25・26日、Aqours1stライブ当日。

私、koiwaslieの逢崎らい。そして、さざなみ写眞館のキタモリテツヒト氏は、沼津の街中を離れて、内浦方面へと出かけた。 

どうしてこの日に内浦へと出かけたのか。

理由は『Aqoursという9人の女の子のいない街を視たかった』から。

ラブライブサンシャインのキャラクターである9人はもちろん現実に存在しない。

キャストである9人もこの街には住んでいない。しかし、私たちの意識の中では確実に、9人は沼津・内浦という土地に住んでいる存在と化している。

その、ある一種の呪縛から解き放たれることができるのが、まさにこの日だった。

つまり、現実のAqours9人は横浜アリーナという舞台に立っている。そして、キャラクターとしてのAqours9人も今日だけはこの街を離れて、大きな舞台にいる。

あの子たちがいなくなると、この街はどうなるのだろう?

沼津の中心街のざわめきに比べて、内浦地区は圧倒的に静かでした。出逢うのは地元の方、もしくはラブライブなんて存在を全く知らないような、普通の観光客ばかり。

これが本来のこの場所の姿なのかもしれない。

ラブライブサンシャインなんていうものがなければ、この街は過去から現在に至るまでずっとこの風景のままだったのかもしれない。

静かに、穏やかに、終わらない春の陽気が漂っていたのかもしれない。

私たちはある一種、昔からずっと続いていた、ありのままの街の風景を壊してしまったのだと思う。

9人のいない街。それは「過去のこの街の姿」だった。

けれど、一方で全く違う風景も視えた。

確かに絶対数は普段に比べて格段に少なくても、歩いているラブライブファンはポツポツと見つかるのだ。

不思議なことに、彼らの姿はその街の景色に溶けこんでいた。まるでずっと以前からそこを歩き、廻り、楽しんでいるような、そんな空気を彼らは纏っていた。ときには立ち止まり写真を撮り、ときには何かを見つけて同行している友人と話し込み、ときには住民を混ぜて談笑したり。

過去の街にとって明らかに異質だったはずの彼らの存在は、ひどく自然な風景の一部へと変化していた。

その様子を見たとき、感じのたはこの街の未来の姿だった。

当然のことながら、流行りというものはいつか廃れる。今こんなにも駆けつけている人たちも、数年後、十数年後には足を運ばなくなる。けれど、それが事実だとしても、一部ずっとこの街に通い続ける人は存在しているはずだ。それこそ、Aqoursが最初の一歩を踏み出すという大切な日にわざわざ内浦地区まで来るような酔狂者たちは、何年経とうが思い立ったときに訪れるのだと思う。

何年経っても多分、この街に溶けこんだストレンジャーの姿は変わらない。

私たちは壊すと同時に、その街の当たり前の景色を新しく作りあげたのだ。

9人のいない街。それは「未来のこの街の姿」だった。

……さて、少し時間は経過して、ライブ2日目が終わった夜のこと。

沼津の映画館のライブビューイングで楽しんだ私たちは、打ち上げがてら、とあるBARへと立ち寄った。

そこのマスターはとても気さくな方で、他にお客がほとんどいなかったということもあり、私たちに熱心に話しかけてきた。

「今日は何してきたの?」

「最近この辺で話題のラブライブのライブを映画館で見てきました」

「あー、あの昨日今日やってたやつね!」

驚いたことに、マスターはラブライブサンシャインのことをとても詳しく知っていた、それこそ劇中のキャラの心境を想像したり、自分がどのキャラが好きかということについて語れるくらいに、だ。

そんな会話のなか、ぽろっと彼がこぼした。

「実は今日、僕もそのライブビューイングってやつに行こうか悩んでたんだけどね、他のお客さんのイベントと被っちゃって行けなくなったんだ。そんなに楽しいんなら行けばよかったな。だって、どんなことやってるのか、この街の人間なら知っておきたいし」

その言葉はある一種の衝撃だった。私は二日間の自らの考えを反省する。

彼の、街の言葉をもって初めて気づかされたのだ。

たとえ9人がこの街からいなくなったとしても、あの子たちは確かに、この街の9人になっているのだということに。

私たちは、9人のいない街に、9人の鼓動を確かに感じ続ける。

 

逢崎らい / @aisakiLie