koiwaslie

音楽とか小説とか映画とかアニメとか。好きなものを好きなまま書きます。

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち-

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(撮影:キタモリテツヒト / @sazanamiPS / さざなみ写眞館)

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記念すべきAqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』(以下HPT)が私にとって衝撃的な内容であったことは、前回の記事「NEXT STEP"旅立つ"ということ」にて綴った。その感情を、そしてそこから視えた景色を正確に言葉として記録しておきたく、改めて記事を書くことにした。もしかしたら数回に分けて言及するかもしれないし、この記事ただ1回だけにとどめるかもしれない。ただ、CDが発売されるまでの、わずか1ヶ月という短い期間に覚えた感情を大切にしておきたい、そういう文章だ。

HPTはタイトル通り電車をモチーフにした楽曲だ。
ではなぜ電車をモチーフにする必要があったのか、そしてそこに秘められた意味とは何か。
電車によって描かれた、彼女たちの旅立ちについて考えてみたいと思う。

HPTのPVは松浦果南がどこかへ旅立つシーンから始まる。その表情はどこか物憂げで、正体の知れない不安感を私たちの胸に満たしてくる。タイトルの時点で陽気なアッパーチューンを期待していただけになおさらだろう。

Aqoursの物語において、旅とはどんな存在であったかを振り返ってみよう。
彼女たちにとって旅立ちが不安として描かれたことは少なかった。μ'sという存在との出会いはまさに旅先の秋葉原でのことだった。引っ越しという旅を経験している梨子は、その移動自体の不安を口にはしていなかった。アニメ劇中で果南が鞠莉を送り出したのも、自分たちから離れた旅立ちの先に新たな希望があると信じての行動だ。

彼女たちの一歩は常に希望・喜びへと繋がっていた。行動した先には常に輝きが待っているのだ。

どうして、彼女たちにとって、旅立ち=希望という構図が成り立っていたのか。
それはこれまでの彼女たちの旅は、あくまで決められた範囲内、つまり境界の内側での出来事に過ぎないからだと私は考える。
アニメ最終話の東海地区予選も、結局は沼津から応援に駆け付けた人間たちによって作りだされた盛り上がりであった以上、彼女たちはアニメ1期終了時点では沼津の内側からまだ旅立てていない。もう少し言及するならば「MIRAI TICKET」という楽曲自体、船出を歌ってはいるが、その進行方向は現在→未来という時間的なものであって、場所的・空間的な移動ではなかった。
梨子の引っ越しについては、少し特殊ではあるが、あらかじめ他者によって作られた移動であることから、彼女にとっての内側そのものが強制的に移動させられてしまっているのだろうと理解する。
彼女たちはまだ内側から外側へと旅立てていない。
動かせているのは内側だけであって、外側を動かす域にまではたどり着けていない。

一方でHPTはどうだろうか。
AメロBメロを歌唱するのは、果南・善子・花丸の投票トップ3。それ以外のメンバーはコーラス以外で歌唱しない。さらにPVにおいても、ドラマシーンでは歌唱する3人以外は一切登場しないという徹底っぷりだ。
地元や仲良しといった内側を想像させるモチーフは一切含まれていない。
ただただ、電車と不安が結びつけられる。

彼女たちにとって電車の持つ意味とはなんだろう?
その理解のために、まずバスと電車の比較から始めたいと思う。
田舎に住む人間にとって、一番身近な公共交通機関はバスだ。「君のこころは輝いてるかい」やアニメ劇中での会話シーン、さらには現実のコラボにおいても、サンシャインの物語でバスは有効活用されてきた。
バスの欠点は遠くに移動するのに適していないというところだ。作中で彼女たちの日常の乗り物は沼津という街の内側でしか動くことができていない。
バスとは旅立ちを描くのにはあまりにも力不足なのだ。

一方で電車は田舎の人間にとって特別な乗り物だ。ドラマでも映画でもアニメでも何でもいい。田舎の人間が都会へと旅立つシーンを思い浮かべたとき、あなたの頭の中には電車が思い浮かんだに違いない。
「恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう列車で」そんなマスターピースがあるほどに電車での移動は普遍的に人々の心へと特別な意味をもたらす。
またアニメ劇中においても、電車での移動は彼女たちにとって特別だった。1回目の旅は6話7話で東京を訪れて自らが井の中の蛙だということを思い知らしめ、2回目の旅は12話でこれから先自分たちが歩むべき道、まさに路線が提示された。少々脱線してしまうが、1話で千歌と曜が修学旅行で東京を訪れた際、彼女たちは東京都という内側を移動する手段として電車を使ったことになる。電車を使って移動した先で出会ったのが彼女たちの今後を決めるμ'sだったというのは興味深い。

電車とはまさに新たな旅立ちのモチーフとして彼女たちの瞳に映る。
それは「内側から内側」の旅とは異なる「内側から外側」への旅立ち。
Aqoursというグループが執拗に「0から1へ」を主張することに、違和感をもっていた人間は少なからずいると思う。なぜならアニメ劇中では地元に愛され予選を突破するだけの実力を持ったアイドル、そして現実ではμ'sという大先輩をもつ成功がほぼ約束されたアイドル。0という言葉がただの卑下にしか聞こえないというのも、あながち間違いではないだろう。
しかし改めて考え直してみると、0とはつまり、1に満たないという意味にも捉えることができる。
言い換えるとこうだ。「0から1」とは「1という内側と外側を隔てる境界線。その内側を充足させること」
0から1を完了した彼女たちが次に目指すのはNEXT STEP。これについて興味深いのは「0から1」と異なり、1からの先が記されていない点だ。1から先は2かもしれない、10かも、100かも、いやさらに巨大な数字かもしれない。
数字を記さなかったことにどんな意味があるのか。それは「内側を作らない」ということだ。これから行う活動は、常に外側へと向き続けていないといけないという、彼女たちの強い意志の表れなのだ。

NEXT STEP=新たなる旅立ち、新たなる挑戦。
内側から、そして外側から、彼女たちが視せてくれる新たな景色がこれから楽しみで仕方ない。