koiwaslie

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感想『ブラックダイス』 -演じて得るは幸か不幸か-

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劇団Flying Tripの舞台『ブラックダイス』4月23日の夜A公演を観劇した。

Aqoursで我が推しの伊波杏樹さんが主演、しかもオリジナル脚本ということもあり、役者として輝く彼女の姿を生で見たいというのが、当初の目的だった。しかし、観劇して、舞台全体を通して思うこと、感じたことを言葉に残したくなったため、今回初めて、舞台の感想を文章として綴ろうと思う。
舞台を実際に見られた方、そして今回は都合が合わずに観劇できなかった方にも、どうか舞台を通じて視えた景色、得た感情が伝わりますように。

 

以下、当舞台のネタバレを含みます、ご注意ください。

 

ブラックダイスにおいて印象的な側面をいくつか挙げてみよう。

 

たとえば、主人公である咲子の変化の一面。
人生を悲観し自暴自棄になっていた咲子が、様々な人に出会い、自らのことを話し、誰かの話を聞くことのできる人間にまで成長していく姿は、徐々に緊張感の増していく展開と相まって観る者を勇気づけてくれた。

 

たとえば、詐欺師たちによる暗躍の一面。
黒川は自らの能力をいかんなく発揮し、周囲の人間たちをものの見事に欺いていく。二面性をもつ表情、彼の顔面がぐにゃりと曲がり大声をあげる瞬間、私たちは何度も恐怖を叩きつけられた。もう一人の詐欺師、赤木の姿も忘れられない。黒川と違い、彼は終始どこか遠いところから俯瞰しているような態度をとり続ける。物語がどこに向かおうとしているのか、全てを最初から知っている。まさにブラックダイスとは、詐欺師の手のひらの上のダイスのような物語であり、登場人物の行動は全て彼の手玉にすぎなかったのだろう。黒川の怒号がドキリだとしたら、赤木の罵声はゾクリ。不安を呼び起こすのだ。

 

たとえば、個性豊かな登場人物に笑顔にさせられる一面。
シリアスな始まりを迎える物語、息を飲む緊張感に包まれた私たちに対して「もっと自然に楽しんで?」と語りかけてくるかのように、絶妙のタイミングでコメディが挿入されていた。しずくが急にエヴァの話をし始めたときは、思わずきょとんとしてしまい、そして、次の瞬間には笑いが堪えられなくなった。おどけた調子の古田は、ときにバカバカしく、だけどなぜかイケメンなときもあって、まさに三枚目と呼ぶにふさわしい、観客に安心を与えてくれる人物だった。

 

たとえば、愛情に涙する一面。
どうして、咲子は芽生に対して黒川の本性について話し、彼女に幸せになってほしいと願ったのだろうか?どうして、成沢は咲子の正体に気づいていたにも関わらず、最後まで口に出さなかったのだろうか?成沢が違法賭博にまで手を染めてしまった真意。咲子が見破ったイカサマとその理由。最後に黒川の口から漏れてしまった芽生への想い。

復讐劇を題材にしているにも関わらず、ブラックダイスという物語には、ある者から他者へと向けられた愛情が必ず、行動の根底に根づいていた。誰かを悪者にして奪い取る感動ではない、皆が救われることで湧きあがる感動がたしかに、その舞台上にあった。

 

少し思い返すだけでも、書きつくせないほどの光景が脳内にありありと蘇る。

では、これらミクロな感想を貫き通す、一本の筋を作りだす『ブラックダイス』全体のテーマとはなんだったのだろうか?

 

わたしの回答はこうだ。
「ブラックダイスとは”演じること”そのものをテーマにした作品だった」

 

咲子は実の父親を騙し、金を奪いとるために、本来の自分とは全くことなる”咲子”という人物を演じていた。
成沢は厳格な経営者たる自分と、娘を溺愛する自分、それぞれを互いに演じながら、自分の本性を隠していた。
芽生はワガママな自分と純粋な自分、そのふたつの演じ分けが自ら制御できず、周囲の人間からの誤解を招いていた。
黒川は計画を遂行するために好青年を演じ、芽生や成沢の懐へと潜り込んだ。

列挙してみるとやはり、彼女らは皆、本来の自分ではない誰かを演じていて、それによって生まれてしまった棘が歯車となって物語を回している。そもそも、メインの舞台となるキャバレーとはまさに「演じること」を商売にしている場所なのだから、このテーマにぴったりではないか。

 

そしてもう一点、「演じること」というテーマに深みを持たせているのが、終盤のカジノシーンだ。
ギャンブルとはつまり、演じる者同士の、演技と演技のぶつけ合いだ。演じきれなくなったものが負け、演じ通したものが勝つ。騙し合いの物語に決着をつけるのにふさわしい場所に違いない。

ところが、この物語の終盤を飾るギャンブルにはイレギュラーが発生する。最後の大勝負を託された咲子は、父親に勝ってほしいという自らの感情に嘘がつけなくなる。つまり、演じることができなくなってしまうのだ。
演じることができなくなった彼女に待っているのは、本来負けのはず。
だが、彼女が手にしたのは大金と権利書、当初の目的であった勝ちを手にする。
…いや、正しくは異なる。過去の自分が描いていた勝利、現在の自分が思い描く敗北を手にしてしまうのだ。

咲子は自らを振り返り、負けっぱなしの人生だと称する。その言葉に違わず、やはりラストのギャンブルは彼女の感じたままの「負け」を意味しているのだろう。
しかし果たして、あの負けに、これまでの彼女の人生へ影を落としていたような悲壮感は漂っていただろうか。答えはNOだ。負けで幕を閉じたはずの物語は、その先、ハッピーエンドへと舵を切っていく。


それはなぜか。

もしや、あのダイスの回転が止まった瞬間、ブラックダイスという作品から「演じ切る=勝ち」の法則が崩れ去ったのではないだろうか?

演じることをやめた咲子は、父親の本当の気持ちを知り、演技の象徴であるキャバレーを立ち去っていく。
経営者という責任から解き放たれた成沢は、ようやく古田に彼の周りで起こっている出来事の全てを話すことができた。
芽生は人によって演じ分けていた表情がひとつになることで、純粋な女の子として皆の前で笑うことができた。
そして、黒川は演じきっていたはずの自分の本当の気持ちに気づきながら、舞台の闇へと消えていく。「お前はまだ戻れる」そう黒川に託す赤木の言葉も、演技ではない本心なのだと、私は信じたい。

演じることをやめた先に待っていたのは、誰もが素直でいられる、原初的な幸せだった。

 

さて、演じることから解放された登場人物たちだが、彼女らの歩みを見ているとあることに気づく。それは「演じること」が、その後の人生における人格形成に繋がっているということだ。

顕著なのはやはり、主人公である咲子だろう。
冒頭での彼女は陰険そのものだった。笑顔は一切見せない、人の思考を全て邪推する、猫背な姿勢。おおよそハッピーエンドを迎えるにふさわしくない姿だ。しかし、彼女は別の自分を演じることで自らを変えていく。笑顔を覚え、人の話をしっかりと聞くようになり、礼を送る姿も様になる。
特に自分自身についてどう考えるかという点は、最初と最後で大きく変わっていた。
最初、彼女は「自分には何もない」と声高に嘆いていたが、キャバレーの客である八代と出会うことで、自分自身の持つ魅力に気づかされる。父親に対する感情が変わったのも、ひとりでは気づけなかった、自分自身の人生で積み上げてきたものに向き合うことができたからだろう。
余談にはなるが、私は八代と咲子の出逢いのシーンがこの舞台で一番印象に残っているほどに大好きだ。八代は物語中では数少ない「演じない強者」だ。慣れ合うことの弱さを嘆き、孤独の強さを説く。演じることを知らない咲子に魅力を見出したのは他でもない彼なのだ。

そしてもうひとり、演じることが成長へと繋がっていたのが成沢だ。
彼は芽生を甘やかしている自分と厳格な自分とを比べて「娘がこの自分の姿を見たら幻滅するだろう」と語っている。彼にとって演者たる自分とは恥ずべき存在なのだ。
だが、物語終盤、咲子に見せた成沢の表情は間違いなく、父親たる自分だった。父親ごっこを続けていたその顔で、彼はもうひとりの娘と向き合うことができたのだ。ここでもやはり、演じていたものがそのまま自分という人格の形成へとつながっている。
また、やはり成沢に対しても「演じること」の鎖から除外された、彼にとっての救世主が存在する。古田だ。彼が自らの信念を貫き通すことができたのは、古田への想いがあってこそで、だからこそ成沢はこんなにも魅力的な人物として描かれていたのだ。

 

ブラックダイスは徹底して「演じること」の魅力と恐怖を伝える舞台だった。
そして観客たる私たちにその根源を伝えてくれたのは、ほかでもない「演じること」を全身全霊でやり遂げた役者たちの努力に違いない。

「役が自分に影響を与えた」や「役者としてターニングポイントになった作品」の話を聞くことがしばしばあるが、なるほどそういうことなのかと納得がいった。物語のキーとしての演じることの重要性は、そのまま、彼女たち役者が舞台上で演じ続ける意味へと重なった。

 

最後に。

完全オリジナル脚本の舞台を見るのは、今回が人生で初めてだった。その記念すべき作品が『ブラックダイス』でよかったと、心の底から感謝している。目の前の舞台から伝わる迫力、空気の振動、瞳に活き活きと映る演者ひとりひとりの表情。どれも忘れられそうにない。「舞台っておもしろいな」と教えてくれたのだ。

興奮冷めやらない私は、また他の作品に足を運び、たくさんの感動体験を得て、そしてまた初期衝動を思い出したくなって、この舞台の余韻に帰ってくるだろう。

「演じること」は舞台上の物語や演じる役者たちだけでなく、観客席にいる我々までもを変えてしまった。

 

演じて得るは幸か不幸か。

その答えはもっとたくさんの演劇に出会ってから考えるとしよう。


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