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こいわずらい

現実と空想の狭間に視える景色

旅路の先に僕らは何を映すのか

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(撮影:逢崎らい)

今回は、偶然撮影できた写真を通じた、ちょっとした小噺。

先日、4月16日開催の沼ラブに合わせて15~17日の沼津探訪を行った。
いろいろと目的はあったのだが、やはり一番は現在いずっぱこ線で行われている、HAPPY PARTY TRAINラッピング電車をこの目で見ることだった。
実物を見た感想等は、他で散々に語られているので、当記事では割愛しよう。ただ、デザインとして完成されたラッピングペイント、人々の生活に密着した空間を走っていく姿、そして地元の方々の反応など。目にして損のない、滅多にない経験ができるので、ぜひ走行期間中に来訪していただきたい。

では、冒頭の写真の話に移ろう。
ラッピング電車内のつり革はAqoursのメンバー9人のカラーに彩られているのだが、その中にひとつだけ、ハートを象ったつり革が用意されている。時期ごとにつり革か中吊りかの位置が変えられているようで、今回は津島善子の中吊りが掲げられていた。
(一応)善子推しの身としては、善子とハートを一緒に写真に収めなければならない。そんな使命感のもと撮影したのがこの写真である。

ハート枠での中吊りの切り取り方、ハートからピントを外してボケさせた点など、iPhoneカメラのわりに満足いく出来になったと個人的には思う。

しかし、今回この写真を取りあげて記事にしようと思ったのは、そんなこととは全く別の部分について言及したいからだ。

もう一度、写真を見ていただきたい。
中吊りの下、車中を進んでいった向こう側に、ひとりの男性の姿が写っていることに気づいただろうか>
手にカメラらしきものを構えているところを見るに、私たちと同様にHPT電車を目的にして、旅に訪れた人間に違いない。少し足を引いた体勢がまるでポーズをとっているようで、偶然にも関わらずなかなか様になっている。

さて、ここから先は写真という現実から切りとって、私個人が勝手に感じとった妄想のお話。

この写真を撮影し、男性の姿に気づいたとき、私のなかにビリリと電流が走った。
彼の姿はつまり、私自身の姿そのものの鏡映しではないか?
ラブライブサンシャインを目当てに沼津へ旅に来て、そこで展開される景色を切りとるためにカメラを構える。それはまさに私自身がこの写真を撮るために行っていた行為であり、そして同時に、写真に写る彼自身が行おうとしている行為である。
偶然、私の撮った写真が彼を写していただけで、仮に彼のカメラがこちら側を向いていたら、彼の撮った写真には間違いなく、同じ姿かたちをとる私がそこに写っていただろう。

カメラというものは、その場所の景色をそのままに切りとる装置だ。
では、写真に写りこむ私たちとは、一体何者なのだろう?

私はこの瞬間、つまり写真という媒体に収められた瞬間に、自らは景色の一部へと変化してしまうのではないかと考える。

「旅」という行為そのものを「自分探し」に例えることがしばしばある。
人は旅の先に自分の姿を探し求めるという論調だ。
しかし、これには少しばかしの疑問が残る。本来旅とは自分にないものを求めて出かける行為であり、その先に自分そのものがあるとは考え難い。そう私はこれまで思っていた。

しかし、この写真を見て、想いを廻らせたとき、その考えを改めようと思った。
旅先で何かに出逢ったとき、新たな発見をしたとき、感動を覚えたとき。私たち自身の姿は誰かの目に映る、誰かにとっての風景の一部と化しているのだ。誰かにとって、自分が好ましい風景の一部となっている。ならば、そのときの私たちは探すべき自分に出逢えたということだ。

旅というのは至極エゴイスティックな行為だ。
自分の人生とは無関係の場所に自分自身を見つけだすだなんて、勘違いも甚だしい。
だけれど、見つけるではなく、作りだせたならどうだろう。なにも持たないストレンジャーたる私たちに、風景は意味を作りだしてくれる。そんな風に考えられたら、旅に出る自分も好きになれるかもしれない。

無意識のうちに、旅路の先に僕らは、自分自身の姿を映しだしてしまっている。

逢崎らい / @aisakiLie