こいわずらい

現実と空想の狭間に視える景色

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色3 -夜明けと夕焼け-

 

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(撮影:逢崎らい/koiwaslie)

 ●序論

Aqours3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』が4月5日ついに発売された。
当ブログでは視聴版段階でHPTから感じとったことを数回記事にしてきたが、フル音源を聴き、そしてフルPVを観て、視聴版に引き続き感じた景色、そして視聴版では感じることのなかった新たな景色を感じとったので、引き続き文章として記していくこととする。

尚、当記事はいわゆる考察的なものではなく、あくまで個人の主観に基づく、理論根拠に欠ける殴り書きだということをあらかじめご了承いただきたい。
思考と弁舌による屁理屈に付き合う余暇に溢れる獄舎にはぜひ楽しんでいただければい思う。

では前置きはさておき本題に移ろう。

今回テーマとするのは、とある部分の歌詞だ。以下にその歌詞を引用する。

「知りたいのは 素晴らしい夜明けと 切なさを宿す夕焼け」

2番Aメロのこの歌詞は、視聴版では聴くことのできなかった部分の出だしということもあり、印象深い方も多いと思う。私もそのうちのひとりだ。加えて、私は最初フルを再生し、このフレーズを聴いた瞬間、鳥肌が止まらなくなった。
なにがそこまで衝撃的だったのか。その理由についてを以下に記していこう。
つまり今回の記事はこのたった24文字のフレーズだけをひたすら掘り下げていく内容の非常にミクロな視点による記事である。

●景色に対する表現方法の差異

最初に着目したいのが、2つの景色を示す言語表現についてだ。
直感的にわかる通り、このフレーズは「夜明け」と「夕焼け」の2つを並列して表現を行っている。加えて、それぞれに相反的な表現を載せて、結果「夜明け」と「夕焼け」を対比している。
問題となるのは、対比を生み出している表現、つまり「素晴らしい」と「切なさを宿す」という言葉の選び方だ。
まず「夜明け」に対する「素晴らしい」という表現について考えよう。
夜明けとは、始まりの象徴として描かれることの多い情景だ。また「夕焼け」に対する「切なさを宿す」という表現についても、終わりの象徴としての夕焼けの表現として問題はない。
「素晴らしい夜明け」と「切なさを宿す夕焼け」という二つを別々に注目してみると、特に目立った違和感はないように思える。しかし、二つを並列して見比べると、ふとある違和感が生まれるのだ。

その違和感とは、夜明けと夕焼けのそれぞれに対する表現技法の差異だ。

「夜明け」に対する「素晴らしい」とは、いわばただの一般論にすぎない。実際の夜明けの風景を見たことがない人間でも、その光景を想像して素晴らしいや綺麗といった感想を抱くのはたやすい。
一方で「夕焼け」に対する「切なさを宿す」は、前述の表現とは性質が明らか異なる。人間的存在ではない夕焼けに対し、切なさを宿すという表現が用いられているということから、ここでは擬人法に注目する必要がある。
擬人法とは一般的に、対象に親近感を覚えているとき用いられる表現である。つまり、このフレーズにおいて夕焼けとは夜明けに比べて、表現者にとってより身近な存在だということだ。
加えて、綺麗や美しいなど一般論で夕焼けを語るのではなく、あえて切ないというマイナスな感情表現を使っているところから、なにか夕焼けに対して特別な感情を抱く人物によって記述された歌詞ではないかと想像できる。

夜明けと夕焼け、2つの表現方法には明らかな差異があるのだ。

では、その違和感を踏まえて、私はある仮説を立てた。

もしかして、この表現者は夕焼けを経験したことはあるが、夜明けを経験したことはないのではないか?

Aqoursにとっての夜明けと夕焼け

そこで、ふと考えついたのがAqoursと夕焼けの関係性だ。
地図を見ればわかる通り、内浦・沼津地区は伊豆半島の西側に位置している。そして西伊豆からは山々に阻まれて、東から昇ってくる太陽を直接的に見ることができない。
つまり、Aqoursという沼津に住む人間にとって身近な存在なのは、夜明けではなく、圧倒的に夕焼けなのだ。

先述したように、夜明けと夕焼けは始まりと終わりの象徴であると捉えることができる。よって、言い換えるなら、Aqoursにとって身近なのは「始まり」ではなく「終わり」ということになる。
これはラブライブ!サンシャイン!!という作品のテーマ性を踏まえると、より確かな推測となるだろう。廃校や夢を諦めること、田舎が普遍的に孕んでいる閉塞性など、どれもが終わりに繋がるテーマだろう。

またラブライブ!サンシャイン!!においては、執拗と思えるほどに夕焼けが描写されている。アニメ劇中はもちろん、G'sピンナップ等、なにかしら夕焼けに特別な意味を持たせていると考えたくなる。

●知りたいの向く先

では、二つの対照的な景色に向けられた「知りたい」という感情は一体どう考えるべきだろうか?

「夜明け」を彼女たちは知らない。だからこそ「素晴らしい」という言葉しか使えない。HPTが旅をテーマとしているのなら、彼女たちはまさに旅先で「夜明け」そのものを知りたいと歌っているのだと私は思う。

「夕焼け」はどうだろう。身近な夕焼けという存在のことを、彼女たちは十分に知っているはずだ。しかし、それを知りたいと歌っている。もしかして、この「知りたい」は「切なさを宿す」の方に係っているのではないか。
夕焼けが終わりを象徴しているというのは、あくまで客観的、つまり物語の外から見ている私たちが抱く考えなだけであって、彼女たちは夕焼けを現象そのものとしか見ることができないはずだ。しかし、その夕焼けを見て、彼女たちは確かに「切なさ」を感じている。
どうして夕焼けが切なさを宿しているのか。その意味・理由を「知りたい」と歌っているのだとしたら、並列された夜明けと夕焼けにはさらに、現象と感情という二つの対比が新たに生まれることとなる。

桜内梨子がこの歌詞を歌うという意味

ところで、この歌詞は桜内梨子がソロで歌いあげているパートである。
そこで先に述べた言葉選びの解釈に、さらに桜内梨子という人間の背景を乗せて、もう一歩考えを踏みこませてみよう。
梨子は東京という東から、沼津という西にやってきた。東というのは夜明けのやってくる方角であり、西とは夕焼けが沈んでいく方角である。東京に住んでいた期間と沼津の期間を比べると、彼女にとって身近なのは夕焼けではなく夜明けではないだろうか?
この疑問は梨子の抱える物語に解釈の糸口があると思う。彼女は東京にいたころ、自らの支えであったピアノの道を一度諦めている。しかし沼津にやってくることで、新たな道を見つけ、同時にピアノに向き直ることに成功した。
つまり、彼女は東にいた頃はその夜明け自体を経験したことがなかったのだ。代わりに、西にやってきた彼女は夕焼けを経験することで、切なさ=自らの感情を知りたいと歌えるようになった。
思えば、アニメにおいて彼女が最初に目にしているのは夕焼けであり、そのときの彼女はとても切ない表情をしている。それがPVではピアノと共に清々しい顔で夕焼けを見送っているのだから、成長と呼ぶほかない。

●本当に夕焼けは終わりの象徴なのか?

また、少し論点はずれるかもしれないが梨子が歌う意味として注目したい点があるので述べておこう。彼女の経験した東京から沼津への引っ越しとは、ある一種旅であると捉えることができる。引っ越しの際、彼女は当然不安や絶望にさいなまれたことだろう。それこそ、本質的に終わりの象徴としての西の描かれ方だ。
しかし、実際彼女を待ち受けていたのは終わりではなく、むしろ始まりだった。PVでは彼女は夕焼けを嬉しそうに見送っているし、不安を浮かべている様子もない。
つまり歌詞で描かれている内容と違い、彼女にとっては夕焼けこそが始まりの象徴であると見受けることができる。

そして以前の記事でとり上げたように、HPTのPVは沼津から豊後森、東から西への旅路を表現している一面がある。そして梨子が始まりを見つけた旅路も東京から沼津、東から西へ向いている。

もしかしたら、これからのAqoursにとって、夕焼けとは終わりではなく、始まりの象徴になっていくのかもしれない。
ここまでで長々と語ってきた夜明けと夕焼けの象徴性は、あくまでもこれまでの彼女たちが抱いていた感情であり、「知りたい」と願った先、実際にその存在と意味を知ったとき、彼女たちはまた違った言葉で2つを歌うのだろう。

●まとめ、ミクロからマクロへ

しかし、当記事で捉えたのはワンフレーズかつワンシーンという、あくまで徹底的にミクロな視点にすぎない。そして、HPTの描こうとしているテーマは当然、このたった一ヶ所で語ってはいけないものだろう。

そこで次回以降、当記事で得たミクロ的視点をマクロ、つまりPVと曲全体に応用しながら、HPTのテーマ性について考えていきたいと私は思う。特に「夕焼け」「旅」という言葉は、作品全体の根底に関わってくると私は考えているため、深く推論していこう。

Aqoursという列車、旅というテーマに乗せて歌われる終わりと始まりの景色、その先になにが待っているのか、もうしばらく読者には、思考と弁舌の旅に付き合ってもらいたい。

(逢崎らい / koiwaslie)

 

【以前の記事】

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色2 -東と西- 

HAPPY PARTY TRAINから視えた景色 -電車と旅立ち- 

NEXT STEP"旅立つ"ということ